コンペ 西大泉老人保健施設

2012年に実施された練馬区の150人が入所可能な老人保健施設です。選定いただき、実施設計をすることになり、基本設計までは完了したのですが、諸般の事情により、中止となってしまいました。

2011年に起きた東日本大震災の影響から、全国で建設費が高騰し、東京都の補助事業として進められていた医療福祉施設が相次いで入札不調となったため、この計画も、建設費が扶桑くするだろうという見通しから、計画が中止となってしまいました。

東京都の方で、判断したようですが、もっと、建築の専門家であるこちらに相談して欲しかったと思いますが、当時の担当者にはそういった思考がなかったようで、非常に残念でした。

ちょい旅 角川武蔵野ミュージアム

2024.11.4

三連休の最終日、所沢へ行ってきた。所沢は、もう26年前くらいにいったきり、久しぶりの訪問である。以前行ったときは練馬から西武線で行ったので、さほど時間はかからなかったが、墨田区から車で行くとなると、1時間半ほどかかった。首都高から関越自動車道を通って、本来、順調にいけば1時間ほどでつくのだが、所沢ジャンクションで降りるべきところを行き過ぎて川越まで行ってしまった。

目指したのは、角川武蔵野ミュージアム。出版社として有名な角川により、建てられた。パンフレットによると、「角川武蔵野ミュージアムは、図書館、美術館、博物館、を”まぜまぜ”にした複合文化施設です。」とある。

現地についてみると、一目でそれとわかる異形の塊が見えた。開口部を持たない、石の塊のような外観は、東京郊外の戸建て住宅と、適度に残る緑の中で、容易に存在を知らせてくれる。

縦と横の比率が通常の施設よりも高さが感じられ、また、その造景は、直線により構成されてはいるが、人工物というよりは、不作為な印象を受ける。

ところざわサクラタウンというエリアの一部が、ミュージアムとなっているが、駅からのアプローチ側にある公園のレベルで全体が結ばれている。アプローチ側の公園と、さくらタウン全体の駐車場は、ところざわサクラタウンの対角線に位置、この二つを結ぶ動線が2階レベルのペデストリアンデッキで結ばれている。

この対角線上に歩いていて、気づくのだが、当初目指していた角川武蔵野ミュージアムは、ところざわサクラタウンの一部であり、この複合施設全体には、角川書店の出版部門、印刷工場、ホール、ショップ、レストラン、神社、N高等学校のスクーリングスペースなど、様々な施設が入っている。ところざわサクラタウンは、「日本最大級のポップカルチャーの発信基地」となっており、角川武蔵野ミュージアムは、単なる美術館ではないことに気づき始める。

そして、[ところざわサクラタウンは、KADOKAWAおよび、角川文化振興財団が所有、運営する複合施設であり、所沢市との共同プロジェクト「COOL JAPAN FOREST構想」の中核施設として2020年にオープンした新しい施設である wiki]

駐車場側のペデストリアンデッキから

新たな神社「武蔵野令和神社」建立

2階レベルのペデストリアンデッキで、反対側に行くと、駅からのアプローチにつながる。こちらからは、神社が来る人を迎える。この神社は、武蔵野令和神社といい、ところざわサクラタウンという、複合文化施設が計画されたとき、角川書店の角川会長がこれだけの複合施設には神社がいるだろうということで、創建された。デザイン監修は、ミュージアムの設計者であもある隈研吾さんである。

手水鉢も丁寧にデザインされ、参拝の作法をデザインに取り入れ、水辺の空間を作り上げる隈研吾さんの神社設計の巧みさが伺える。

この神社は、令和になってからの創建ということもあり、その設定は、口承などではなく、出自がはっきりとしており、誰が、どういう意図で、何を言ったかが残っているので、神社の成り立ちを知る上でも興味深い。

以下は、この神社のホームページからの引用である。

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主祭神:天照大御神(あまてらすおおみかみ)
相殿神:素戔嗚命(すさのをのみこと)

鎮座される二柱の御祭神を総称して「言霊大神(ことだまのおおかみ)」と申し上げます。
〈正式名称:武蔵野坐令和言霊大神(むさしのにますうるわしきやまとのことだまのおおかみ〉

「言霊大神」とは、文芸・芸術・芸能といったコンテンツの表現に顕れる神の御稜威(みいつ:神の威光)のことです。
詩歌や小説、音楽や絵画、映画や舞台、アニメ・コミック・ゲームなど、 やまとの国=日本で誕生するハイカルチャーからポップカルチャーまで、 学術(アカデミック)から娯楽(エンタテインメント)まで、 すべてのコンテンツに宿る神威を尊称して「言霊大神」とその御名を申し上げます。

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おみくじがたくさんあった

さて、いよいよ、ミュージアムに入ってみよう。ミュージアムは、本自体を展示物として見せる部分と、モネなどの絵画を見せる部分からなる。すべてを見る共通チケットは平日3100円、休日3500円。絵画を除いた本の部分だけだと、平日1400円である。

まず、エレベーターで、最上階の5階に行く。表紙を見せるタイプの本棚。縦の部材が、表紙面を見えないようにし、本棚の木質が視界を占める。武蔵野の雑木林をイメージして、木がメインということなのだろうか?

かつて武蔵野に居たというダイダラボッチ

高さ8mの書棚

プロジェクションマッピングは、1時間に3回上映される

ミュージアムというと、日本語では美術館、博物館という意味が一般的だが、図書館という意味を持たせてもいいのではと思うほどの本の見せ方が多様で面白い

2階はラノベ(ライトノベル)図書館。日本最大のラノベ図書館とのこと。ここは、蔵書数を収めるため、整然と並べられている。

建築のディティールをいくつか紹介。まずは、カウンター

トイレのピクトサイン。男女の表現がほのぼのとしている

2階エントランスの階段と手摺、落下防止の金網を拡張して、ライティングによりスクリーン上に見せている。金網の端部は、切りっぱなしの部分がないように処理してあった。

お昼は、ところざわサクラタウンを出て、山田太郎という店で、みそタンメン800円とライスとチキンのセット250円。入店してから調べると、埼玉で有名なの山田うどんの系列店だった。であれば、斜め向かいの山田うどんでもよかった

池原義郎が設計した礼拝堂、1973年竣工。屋根が特徴で、木製であり頂部のガラスのボックスは昼は光を中に入れ、夜は中の明かりが外に漏れるという。

礼拝堂は霊園のなかにあり、入り口付近には、新たな礼拝堂と事務スぺースが入った建物が立っていた。

138km。6時間

ちょい旅 【建築探訪】隈研吾さん設計の廣澤美術館

2024.10.6

今年の夏は、「北半球、観測史上最も暑い夏に昨年の記録更新」(ロイター)とのことで、

外での活動も控えていましたが、ようやく、涼しくなってきたので、少しだけ遠くに行ってきました。

目指すのは、茨城県筑西市の廣澤美術館(2021年竣工)。東京の墨田区から片道75kmと適度な距離、しかも少し曇り気味でちょうどよい気温。予報では、雨も降らないようなので、バイクで出発。

バイクは久しぶりなので、案の定、バッテリーが上がってエンジンがかから

ない(笑)。携帯バッテリーを接続してエンジン始動!とりあえず出発できるようにして、まずは、エンジンを止めないように走り続け、常磐自動車道の守屋サービスエリアまで約30kmを走った。その後、谷和原ICで高速を降り、R294号を北上。

小腹もすいてきたので、昼食にしようと思い、ガッツリ食べたいなと思ったところで横浜家系ラーメンの看板が見えたので、迷わずバイクを止めた。

横濱家系ラーメン 幸屋(こうや)水海道店でラーメン900円とライス150円で小腹を満たし、目的地を目指す。

ナビに導かれるままに幾度か曲がり、到着。途中。大きな看板は無い。なぜなら、廣澤美術館は公的な美術館ではなく、私立の美術館なのである。

門のところに、品の良い感じで館名が切文字で取り付けられている。文字が門になじむような色使いである。

控えめのサイン。通り過ぎてしまったが、近づくと廣澤美術館であると確認できた。

外観は、平屋建てのこじんまりとした建物。美術館であることを外部にアピールするようなシンボル性はないが、巨石を壁のように並べた端部に、木の軒天が、普通ではない雰囲気を漂わせている。

エントランスは片流れのシンプルな屋根が、人を迎え入れるように、こちら側が水上になっていて、軒天が近づく者によく見えるようになっている。

大量に積まれ建物を覆い隠している巨石を除けば、この軒天が、美術館建築として認識できる唯一の人工物となろうか。それだけに重要な造形である。

構造と、意匠はシンプルに見える。建物本体から延びる、水上と水下のスチールの片持ち材に垂木が接合している。垂木は細長い断面形状を持った台形が、下端の見つけが薄くなるように取り付けられている。端部の小口は、切りっぱなしのようであり、雨係(あまがか)りに配慮してか、少し内側になっている。

軒天の雨係りについては、上から降る雨を避けている設計を良く見かけるが、雨を避けているようであっても、小口が痛んでいるのを目にする。どの程度、雨係りに配慮するかは難しいところである。やはり、外部である以上、雨が係ることを前提に木部の処理が必要ではないかな?と思う。

築3年にしては、木部の劣化が進んでいるような印象だったが、今後どのように変化が気になる。

内部空間は、片流れのシンプルな空間が、平面的に三角形に配置され、その内一辺がエントランスホール、他の二辺が展示スペース。三角に囲まれた部分が、倉庫、トイレなどになっている。

面白いのは、そう思ったのは自分だけかもしれないが(笑)、三辺それぞれ外部から見える計画のためか、内側の三角の一部が、室外機置場として外部空間になっている。室外機置場のためだけに中庭になっているとすれば、ある意味贅沢なつくりだなって思う。

内部の展示空間は、エントランスの軒天と同じ天井が連続し、高さのある根太の間に照明が、設置され、照明器具の存在は全く感じなかった。

この美術館のオーナーについて少し紹介すると、オーナーの廣澤清氏は、金属プレス加工や精密金型の製作会社広沢製作所を母体とした総合企業グループ広沢グループの代表。

一通り、見て回ったところで、時折、シニアカーに乗った高齢の男性とすれ違った。もしやと思い、スタッフの方に聞いてみると、この美術館のオーナーの廣澤氏だった!

スタッフの方は、「どうぞ、声をかけてあげて下さい」と言っていたが、その機会を逸してしまい、とても残念な思いをした。この廣澤氏から、隈研吾に連絡をとって、美術館の設計を依頼したらしい。隈研吾は、敷地を訪れ敷地に大量に横たわていた巨石を美術館の設計に利用したのだ。

今の隈研吾と言えば、世界各地でプロジェクトが進行中の建築家。美術館を含め巨大施設の設計も数多く手がけている。その多くは公共のものであり、地方自治体が発注者であるものが多いと思う。そんな建築家に直接、自らの美術館を発注するとは、今回の建築探訪は、施主の廣澤さんのクローズアップもしたくなった。

地震後の宿泊施設の被害状況、建築年による違いが明らか!能登半島地震の実例から見えた課題

2024.10.11

2024年1月1日、能登半島地震発生

私達の生活・仕事の場となっている建物について、地震に対してどの程度安全か考えたことありますか?

今年の1月に起きた能登半島地震は、輪島市において、最大震度7の震度を記録した大地震でした。実際に、現地で確認した様子をもとに、建築年代別にどのような被害だったかを、簡単にまとめてみました。

建築年代により異なる被害

建築年により四つの区分に分けることができ、それぞれ、建築年により被害の程度が、明らかに違うことが確認できました。

①建築基準法ができる以前にできた建物 ~1950

②建築基準法ができてから1981年までにできた建物 1950~1981

③1981年より後にできた建物 1981~2001

④2001年より後にできた建物 2001~

それぞれの建築年のよる違いについて少し詳しく説明したいと思います。

①については、耐震性はほとんどないと思ってもらって良いです。いわゆる古民家などがここに分類されます。写真の古民家は、輪島市の伝統的な建築として、輪島市景観重要建築物の指定されていましたが、地震後は、残念ながら、倒壊してしましました。

②については、旧耐震(きゅうたいしん)と言われ、耐震性は極めて低くなっています。地震後は、大破し、使い続けることは困難で、建替えなければなりません。

③については、新耐震(しんたいしん)と言われ、一般的には耐震性が高いと言われています。大きな地震が来た時、中にいる人の命は守ってくれる強度はありますが、地震後に建物を使い続けることはできなくなる可能性が高いです。この建物も営業を続けることはできなくなっていました。

④は、ほぼ現行の耐震基準となっています。新耐震基準で不足している部分を補っています。地震後も、被害は、ほとんどなく、営業も問題なく続けられていました。

いづれの基準を満たした建てものが良いのでしょうか?

命を守りたい場合、自分で所有している場合、被災後の事業を継続したい事業者の場合など、建物を利用する方により、要求される水準は違うかと思います。

③の新震基準の建築については、地震後、とりあえず、建物の中にいるいる人の命は守ってくれる可能性は高いです。しかし、地震の後は、建物は使えなくなる可能性が高いでしょう。

かなや設計