ちょい旅 【建築探訪】隈研吾さん設計の廣澤美術館

2024.10.6

今年の夏は、「北半球、観測史上最も暑い夏に昨年の記録更新」(ロイター)とのことで、

外での活動も控えていましたが、ようやく、涼しくなってきたので、少しだけ遠くに行ってきました。

目指すのは、茨城県筑西市の廣澤美術館(2021年竣工)。東京の墨田区から片道75kmと適度な距離、しかも少し曇り気味でちょうどよい気温。予報では、雨も降らないようなので、バイクで出発。

バイクは久しぶりなので、案の定、バッテリーが上がってエンジンがかから

ない(笑)。携帯バッテリーを接続してエンジン始動!とりあえず出発できるようにして、まずは、エンジンを止めないように走り続け、常磐自動車道の守屋サービスエリアまで約30kmを走った。その後、谷和原ICで高速を降り、R294号を北上。

小腹もすいてきたので、昼食にしようと思い、ガッツリ食べたいなと思ったところで横浜家系ラーメンの看板が見えたので、迷わずバイクを止めた。

横濱家系ラーメン 幸屋(こうや)水海道店でラーメン900円とライス150円で小腹を満たし、目的地を目指す。

ナビに導かれるままに幾度か曲がり、到着。途中。大きな看板は無い。なぜなら、廣澤美術館は公的な美術館ではなく、私立の美術館なのである。

門のところに、品の良い感じで館名が切文字で取り付けられている。文字が門になじむような色使いである。

控えめのサイン。通り過ぎてしまったが、近づくと廣澤美術館であると確認できた。

外観は、平屋建てのこじんまりとした建物。美術館であることを外部にアピールするようなシンボル性はないが、巨石を壁のように並べた端部に、木の軒天が、普通ではない雰囲気を漂わせている。

エントランスは片流れのシンプルな屋根が、人を迎え入れるように、こちら側が水上になっていて、軒天が近づく者によく見えるようになっている。

大量に積まれ建物を覆い隠している巨石を除けば、この軒天が、美術館建築として認識できる唯一の人工物となろうか。それだけに重要な造形である。

構造と、意匠はシンプルに見える。建物本体から延びる、水上と水下のスチールの片持ち材に垂木が接合している。垂木は細長い断面形状を持った台形が、下端の見つけが薄くなるように取り付けられている。端部の小口は、切りっぱなしのようであり、雨係(あまがか)りに配慮してか、少し内側になっている。

軒天の雨係りについては、上から降る雨を避けている設計を良く見かけるが、雨を避けているようであっても、小口が痛んでいるのを目にする。どの程度、雨係りに配慮するかは難しいところである。やはり、外部である以上、雨が係ることを前提に木部の処理が必要ではないかな?と思う。

築3年にしては、木部の劣化が進んでいるような印象だったが、今後どのように変化が気になる。

内部空間は、片流れのシンプルな空間が、平面的に三角形に配置され、その内一辺がエントランスホール、他の二辺が展示スペース。三角に囲まれた部分が、倉庫、トイレなどになっている。

面白いのは、そう思ったのは自分だけかもしれないが(笑)、三辺それぞれ外部から見える計画のためか、内側の三角の一部が、室外機置場として外部空間になっている。室外機置場のためだけに中庭になっているとすれば、ある意味贅沢なつくりだなって思う。

内部の展示空間は、エントランスの軒天と同じ天井が連続し、高さのある根太の間に照明が、設置され、照明器具の存在は全く感じなかった。

この美術館のオーナーについて少し紹介すると、オーナーの廣澤清氏は、金属プレス加工や精密金型の製作会社広沢製作所を母体とした総合企業グループ広沢グループの代表。

一通り、見て回ったところで、時折、シニアカーに乗った高齢の男性とすれ違った。もしやと思い、スタッフの方に聞いてみると、この美術館のオーナーの廣澤氏だった!

スタッフの方は、「どうぞ、声をかけてあげて下さい」と言っていたが、その機会を逸してしまい、とても残念な思いをした。この廣澤氏から、隈研吾に連絡をとって、美術館の設計を依頼したらしい。隈研吾は、敷地を訪れ敷地に大量に横たわていた巨石を美術館の設計に利用したのだ。

今の隈研吾と言えば、世界各地でプロジェクトが進行中の建築家。美術館を含め巨大施設の設計も数多く手がけている。その多くは公共のものであり、地方自治体が発注者であるものが多いと思う。そんな建築家に直接、自らの美術館を発注するとは、今回の建築探訪は、施主の廣澤さんのクローズアップもしたくなった。

地震後の宿泊施設の被害状況、建築年による違いが明らか!能登半島地震の実例から見えた課題

2024.10.11

2024年1月1日、能登半島地震発生

私達の生活・仕事の場となっている建物について、地震に対してどの程度安全か考えたことありますか?

今年の1月に起きた能登半島地震は、輪島市において、最大震度7の震度を記録した大地震でした。実際に、現地で確認した様子をもとに、建築年代別にどのような被害だったかを、簡単にまとめてみました。

建築年代により異なる被害

建築年により四つの区分に分けることができ、それぞれ、建築年により被害の程度が、明らかに違うことが確認できました。

①建築基準法ができる以前にできた建物 ~1950

②建築基準法ができてから1981年までにできた建物 1950~1981

③1981年より後にできた建物 1981~2001

④2001年より後にできた建物 2001~

それぞれの建築年のよる違いについて少し詳しく説明したいと思います。

①については、耐震性はほとんどないと思ってもらって良いです。いわゆる古民家などがここに分類されます。写真の古民家は、輪島市の伝統的な建築として、輪島市景観重要建築物の指定されていましたが、地震後は、残念ながら、倒壊してしましました。

②については、旧耐震(きゅうたいしん)と言われ、耐震性は極めて低くなっています。地震後は、大破し、使い続けることは困難で、建替えなければなりません。

③については、新耐震(しんたいしん)と言われ、一般的には耐震性が高いと言われています。大きな地震が来た時、中にいる人の命は守ってくれる強度はありますが、地震後に建物を使い続けることはできなくなる可能性が高いです。この建物も営業を続けることはできなくなっていました。

④は、ほぼ現行の耐震基準となっています。新耐震基準で不足している部分を補っています。地震後も、被害は、ほとんどなく、営業も問題なく続けられていました。

いづれの基準を満たした建てものが良いのでしょうか?

命を守りたい場合、自分で所有している場合、被災後の事業を継続したい事業者の場合など、建物を利用する方により、要求される水準は違うかと思います。

③の新震基準の建築については、地震後、とりあえず、建物の中にいるいる人の命は守ってくれる可能性は高いです。しかし、地震の後は、建物は使えなくなる可能性が高いでしょう。

かなや設計