ちょい旅 最近の横浜中華街

2024年11月21日 101.6km

天気が良いので、バイクでの外出日和。でも、12月も近づき少し寒くなってきたのであまり遠くに行くのは気が重い。ということで、横浜中華街に行くことに。

愛車のセローのエンジンをかけようと思ったら、バッテリーが上がり(泣)、横浜まで走れば、充電もされるだろうと思い、とりあえず、自宅でエンジンを始動し、横浜に向かった。

40分ほどで中華街につくと、大勢の人でにぎわっている。歩いている人の様子を見ると、以前の中華街とは少し違う。多くの人が、立ち食いをしている。年配の人は少なく、大学生くらいの年齢、子供連れの若い夫婦。若いカップルなど、ベビーカーの屋根に小籠包を置き、路上で立ち食いスペースとして楽しんでいる夫婦もいる。

中華街大通りは、人通りも多いので、通りで立ち止まっての飲食をしている人はいないが、店頭販売している店の前の歩道は、立ち食いスペースになっていた。また、その近隣の店の前も立ち食いスペースになっている。

店頭販売され、立ち食いしているのは、目についたものとしては、イチゴを串刺しにしたもの、ジーパイ(鶏肉を薄く広げた揚げ物)、小籠包、肉まん、イカを串にさしたものなどである。

10年ほど前から目にするようになった。チャンピオン肉まん。看板には「中国料理世界チャンピオン」って書いてあるが、同じ店に4人ものチャンピオンいるってスゴイよね!

パンダ饅頭、かわいくて買いたくなってしまう。

ジーパイと小籠包、食べ歩きの

どこで食事にしようか?悩みながら歩くのも中華街の楽しみの一つ、この日は、市場通りをまっすぐ進み、人混みがとぎれたあたりにある満来亭、ここは、自家製の麺の販売も行っている。

麺が二玉で200円。スープも売っているので、本格中華のラーメンが家でできる!

小さな通り、香港路には老舗の海員閣がある、wikiによると海員閣は、1936年創業と、中華街でも最も古い部類の店の一つとされている。小津安二郎が日記にも足を運んだと書いているらしい。また、順海閣はシュウマイ発祥の店として有名である。自分の記憶では、この通りに安記(あんき)というお粥の店がおいしかった記憶がある。

コンペ 西大泉老人保健施設

2012年に実施された練馬区の150人が入所可能な老人保健施設です。選定いただき、実施設計をすることになり、基本設計までは完了したのですが、諸般の事情により、中止となってしまいました。

2011年に起きた東日本大震災の影響から、全国で建設費が高騰し、東京都の補助事業として進められていた医療福祉施設が相次いで入札不調となったため、この計画も、建設費が扶桑くするだろうという見通しから、計画が中止となってしまいました。

東京都の方で、判断したようですが、もっと、建築の専門家であるこちらに相談して欲しかったと思いますが、当時の担当者にはそういった思考がなかったようで、非常に残念でした。

ちょい旅 角川武蔵野ミュージアム

2024.11.4

三連休の最終日、所沢へ行ってきた。所沢は、もう26年前くらいにいったきり、久しぶりの訪問である。以前行ったときは練馬から西武線で行ったので、さほど時間はかからなかったが、墨田区から車で行くとなると、1時間半ほどかかった。首都高から関越自動車道を通って、本来、順調にいけば1時間ほどでつくのだが、所沢ジャンクションで降りるべきところを行き過ぎて川越まで行ってしまった。

目指したのは、角川武蔵野ミュージアム。出版社として有名な角川により、建てられた。パンフレットによると、「角川武蔵野ミュージアムは、図書館、美術館、博物館、を”まぜまぜ”にした複合文化施設です。」とある。

現地についてみると、一目でそれとわかる異形の塊が見えた。開口部を持たない、石の塊のような外観は、東京郊外の戸建て住宅と、適度に残る緑の中で、容易に存在を知らせてくれる。

縦と横の比率が通常の施設よりも高さが感じられ、また、その造景は、直線により構成されてはいるが、人工物というよりは、不作為な印象を受ける。

ところざわサクラタウンというエリアの一部が、ミュージアムとなっているが、駅からのアプローチ側にある公園のレベルで全体が結ばれている。アプローチ側の公園と、さくらタウン全体の駐車場は、ところざわサクラタウンの対角線に位置、この二つを結ぶ動線が2階レベルのペデストリアンデッキで結ばれている。

この対角線上に歩いていて、気づくのだが、当初目指していた角川武蔵野ミュージアムは、ところざわサクラタウンの一部であり、この複合施設全体には、角川書店の出版部門、印刷工場、ホール、ショップ、レストラン、神社、N高等学校のスクーリングスペースなど、様々な施設が入っている。ところざわサクラタウンは、「日本最大級のポップカルチャーの発信基地」となっており、角川武蔵野ミュージアムは、単なる美術館ではないことに気づき始める。

そして、[ところざわサクラタウンは、KADOKAWAおよび、角川文化振興財団が所有、運営する複合施設であり、所沢市との共同プロジェクト「COOL JAPAN FOREST構想」の中核施設として2020年にオープンした新しい施設である wiki]

駐車場側のペデストリアンデッキから

新たな神社「武蔵野令和神社」建立

2階レベルのペデストリアンデッキで、反対側に行くと、駅からのアプローチにつながる。こちらからは、神社が来る人を迎える。この神社は、武蔵野令和神社といい、ところざわサクラタウンという、複合文化施設が計画されたとき、角川書店の角川会長がこれだけの複合施設には神社がいるだろうということで、創建された。デザイン監修は、ミュージアムの設計者であもある隈研吾さんである。

手水鉢も丁寧にデザインされ、参拝の作法をデザインに取り入れ、水辺の空間を作り上げる隈研吾さんの神社設計の巧みさが伺える。

この神社は、令和になってからの創建ということもあり、その設定は、口承などではなく、出自がはっきりとしており、誰が、どういう意図で、何を言ったかが残っているので、神社の成り立ちを知る上でも興味深い。

以下は、この神社のホームページからの引用である。

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主祭神:天照大御神(あまてらすおおみかみ)
相殿神:素戔嗚命(すさのをのみこと)

鎮座される二柱の御祭神を総称して「言霊大神(ことだまのおおかみ)」と申し上げます。
〈正式名称:武蔵野坐令和言霊大神(むさしのにますうるわしきやまとのことだまのおおかみ〉

「言霊大神」とは、文芸・芸術・芸能といったコンテンツの表現に顕れる神の御稜威(みいつ:神の威光)のことです。
詩歌や小説、音楽や絵画、映画や舞台、アニメ・コミック・ゲームなど、 やまとの国=日本で誕生するハイカルチャーからポップカルチャーまで、 学術(アカデミック)から娯楽(エンタテインメント)まで、 すべてのコンテンツに宿る神威を尊称して「言霊大神」とその御名を申し上げます。

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おみくじがたくさんあった

さて、いよいよ、ミュージアムに入ってみよう。ミュージアムは、本自体を展示物として見せる部分と、モネなどの絵画を見せる部分からなる。すべてを見る共通チケットは平日3100円、休日3500円。絵画を除いた本の部分だけだと、平日1400円である。

まず、エレベーターで、最上階の5階に行く。表紙を見せるタイプの本棚。縦の部材が、表紙面を見えないようにし、本棚の木質が視界を占める。武蔵野の雑木林をイメージして、木がメインということなのだろうか?

かつて武蔵野に居たというダイダラボッチ

高さ8mの書棚

プロジェクションマッピングは、1時間に3回上映される

ミュージアムというと、日本語では美術館、博物館という意味が一般的だが、図書館という意味を持たせてもいいのではと思うほどの本の見せ方が多様で面白い

2階はラノベ(ライトノベル)図書館。日本最大のラノベ図書館とのこと。ここは、蔵書数を収めるため、整然と並べられている。

建築のディティールをいくつか紹介。まずは、カウンター

トイレのピクトサイン。男女の表現がほのぼのとしている

2階エントランスの階段と手摺、落下防止の金網を拡張して、ライティングによりスクリーン上に見せている。金網の端部は、切りっぱなしの部分がないように処理してあった。

お昼は、ところざわサクラタウンを出て、山田太郎という店で、みそタンメン800円とライスとチキンのセット250円。入店してから調べると、埼玉で有名なの山田うどんの系列店だった。であれば、斜め向かいの山田うどんでもよかった

池原義郎が設計した礼拝堂、1973年竣工。屋根が特徴で、木製であり頂部のガラスのボックスは昼は光を中に入れ、夜は中の明かりが外に漏れるという。

礼拝堂は霊園のなかにあり、入り口付近には、新たな礼拝堂と事務スぺースが入った建物が立っていた。

138km。6時間

マレーシア クアラルンプール

今年の北半球は、観測史上で一番暑い夏だったらしい(ロイター)が、そんな中、日本よりも暑いのではないかと思われるマレーシアに行ってきた。しかし、今年の8月の東京とクアラルンプールの気温を調べてみると(気象庁ホームページ

月平均気温東京39℃、クアラルンプール28.2℃、

月平均最高気温では東京33.6℃、クアラルンプール32.7℃

なんと、東京の方が暑かった!ちなみに東京は北緯36度、クアラルンプールは赤道の近くであり北緯3度である。ちょっとした避暑だったかも(笑)

飛行機は、羽田発のLCC、エアアジア。昨年タイに行ったときに飛行機の中が寒かったので、今回は半ズボンではなく長ズボンをはいていったので寒さを感じることはなかった。

空港は、クアラルンプール国際空港、到着してからゲートを出るまで歩く距離が、とにかく長かった。一体、誰が設計したのだと思っていたら、長男が、黒川紀章と教えてくれた。

この空港は、当時のマハティール首相が主導し、それまでの空港をから新たに建設された。「森の中の空港、空港の中の森」をコンセプトに日本の建築家、黒川紀章が全体計画とターミナルの設計を担当。メインターミナルを大成建設、サテライトを竹中工務店が施工を行った。

自分の好きな黒川紀章が設計していたこと、当時のアジアの大プロジェクトを設計と施工両方を日本が担っていたことなど、今日においては非常に感慨深い。

さて、空港からクアラルンプールまでは43km離れている。通常であれば迷わず鉄道で向かうのであるが、事前に調べた情報では、マレーシアではGrabというサービスがあり、行先と人数をアプリに入れると、近くにいる車が、値段を提示してくるという。早速次男がアプリで調べてみる。高速鉄道の料金と比べてみると、5人で移動するのであれば、断然Grabの方が安い。しかも、ホテルまで連れてってくれるという。これは、迷わずGrabでしょう!

結局、クアラルンプール滞在中、列車やバスは一切使わず、移動は、徒歩または、Grabであった。旅先での移動のストレスが劇的に減った。こういう点は、日本ももっと進んでほしいと思うところであるが、既存の交通システム(電車、バス、タクシー等)との調整が難しいのだろうな~

ただ、5人乗車の場合、3列目のシートが狭いので、だれが3列目に乗るかという点が課題になった。ちなみに、空港からホテルまで私が3列目に乗ったが、超エコノミークラス症候群になる狭さであった(笑)

一日目は、朝早く、クアラルンプールについたので、一日目からしっかり観光が可能だ。ホテルについて、荷物を預けようとフロンに声をかけると、チェックイン前に荷物は預からないという。自分の英語力ではそういう結論になってしまった。そんなはずはないという次男の意見もあり、もう一度フロントに言うと今度はすんなり預かってくれるとのこと。どういうこと?

結論としては、自分かフロントのどちらかの英語力に問題があったということか(笑)

さて、荷物を預けて、町の中心地方面に歩く、途中、屋台や路面に面したジャラン・アローとう屋台通りにあるホテルのレストランでモーニングを食べた。ジャラン・アローは夕方から屋台がにぎやかになり始め、チキンライス、肉骨茶、空心菜炒め、かき氷などが安くておいしいローカルフードが楽しめるらしい。

近くの繁華街ブキビンタンに近づくにつれ、両替所が増え、大きな交差点には伊勢丹が立っていた。勢いのある時の日本が建てたのだろうなと思い。戦国時代に東南アジアに日本人町が出来たことなどと重なる。

両替をした後、高島屋の前でGrabに乗り、パドゥ洞窟へ。ここは、ヒンドゥー教の寺院が大きな洞窟の中にある。まずは、階段をひたすら上る。

大きな洞窟は上から水が滴り、水の滴った結果つらら上の石が上部から垂れ下がり、落ちてこないかと心配になるほど。

ヒンドゥ教の寺院の宗教施設は初めての経験。ここはその中でも特殊とは思うが、強烈な印象に包まれた。写真の左手にお祈りの空間があり、靴を脱いで祭壇に向かう。洞窟の中ということもあるが、足元が濡れながら足を進めるのは、今まで、どの宗教施設でもなかった経験だった。寝不足の身にとって、日中の暑さと、階段の上り下りですっかり耐力を消耗してしまった。寺院を出てまたGrabで中心街に戻る。パビリオンというショッピングセンターのフードコートで昼を食べ、事前に申し込んでおいたペトロナスツインタワーのツアーに向かった。

最上部の展望台スペースから、ツインタワーの片割れを望む。1996年に完成したというから、もう28年もたつのか?設計は、アルゼンチン出身のアメリカの建築家シーザー・ぺリ。日本国内でも、アメリカ大使館をはじめ多くの建物のデザインをしてきたが、このタワーのデザインはシーザー・ペリの設計した建物の中でも突出した出来栄えである。マレーシアというアジアの一都市に立つビルが、こんなにも町のシンボルとなり、その象徴性により、ビルがこの町を代表しているような、まちのシンボルがこのビルであるような、分かちがたい存在になっている。このような建物は、近代建築より後では、それほど多くはない、シドニーのオペラハウスとこの建物くらいではないだろうか?

遠くから見ると、ある種の宗教施設のようなシンボル性を持つが、その宗教性が、どの宗教のどの部分を象徴しているのだろうか?上部に行くに従い段階的に小さくなっていく形状はヒンドゥの寺院を思わせる、ツインタワーは、イスラム寺院のミナレットを想起させる。差民族、他宗教国家であるマレーシアならではの意匠を意図したのだろうか?

この日はとにかくよく歩いた、29,194歩、たぶん今年一番の歩数だと思う。

次の日は、ホテルの向かいの食堂で朝食。次男の後ろの店員が親切にメニューを説明してくれた。火の通った、炒め物や温かいミルクティなど、おなかに優しいものを頼んだ。

この後は、イスラムの寺院も一つは見ておきたいということで、いわゆるピンクモスクといわれるプトラジャヤにあるプトラモスクというモスクへ行った。確か、イスラム寺院というのは四隅にミナレットという塔が立っていると学生の時に教わった気がするが、この寺院では大きな塔が1つ立っていた。新しいモスクなので、革新的な配置となっているのだろうか?

完成は1999年と新しく、マレーシア首相府の隣に位置し、ピンク色は花崗岩の色だそうだ。内部は、正方形の平面からドームを持ち上げるイスラム寺院特有の構造に倣っている。古代から伝わる組積造による構造的な特徴が現代の寺院の意匠として継承され、荘厳な雰囲気を作り出している。

世界各国から、もちろん日本各地から観光客が来ているらしく、訪問者の出身地をピンで示している。台湾からの訪問者が多いみたいで、地図の台湾の地図が見えないほどのピンが立っていたのが面白かった。

この日も歩数が多く、まだ昼だというのに疲れてきた。Grabで中心地方面のチャイナタウンに向かった。中華系のものというよりは、いろいろなものがいろいろな人たちが売っているところである。本物かどうかわからないが、私は。ここでモンブランの100mlの香水を手に取った。あまり買う気はなかったのだが、いくら?と聞くと250RM(8250円)という。いらないと言うと200RMにするという。それでも立ち去ろうすると、こちらについてくる100RM(3300円)なら買うよというと、それでよいというので、買ってしまった。

その後、おなかがすいたので、たまには、有名な店に入ろうかと思い。チキンライスで有名なナム ヘオンという店に入った。ここは、ミシュランのビブ・グルマンにも出たという店らしい。

午後のイスラムは、イスラム美術館。Grabで移動。

イスラムは、ずいぶんと美意識がたかいのだなぁと感心してみて回った。ふと、正面玄関の自動扉の下部に目が留まった。

この後は、セントラルマーケットから、徒歩でチャイナタウン周辺をぶらぶら、スリ マハ マリアマン寺院を外部から眺めた。この寺院はクアラルンプール最古のヒンドゥ教の寺院で、1873年に建てられ、その後、1973年に建替えが行われたらしいwiki。隣の建物とも一体化して、町全体に同化しているよう。wiki

夕食は、最後に、しっかりちゃんとしたものを食べようと思い。客家飯店に。店名にもなっているように中華系の客家の子孫がやっているのだろうか?一人で円卓で食事をしているのは、この店の重鎮のようで、私たちが、店に到着した時の行列をあちこちのテーブルにさばいていた。私服を着ていることから従業員というよりはオーナーなのだろうか?愛想は良くないが、最後に会釈をしてくれた。

この日の歩数は20,227歩、昨日よりは少ないが、よく歩いた。

今日は最終日なので、朝食を近くで食べてあとは空港へ向かうのみである。せっかくなので、多民族国家であるマレーシアの醍醐味を味わおう。という、気持ちもあり、次男が心惹かれて町角のイスラミックな感じのオープンタイプの店に入った。飲物は、氷入りの冷たいものはお腹を壊しそうなので、ホットミルクティにして、食事はラム肉とライスのセットにした。ラム肉は骨の周りに肉がついたもの。骨をつかんで漫画に出てくる肉のような感じでほおばる。味は臭みもなく、肉をたっぷり食べることができた。少し気になったのが肉の骨の付近が赤かったような、、、

朝食を食べ終え、地図に表示されるスーパーを探して歩いていると、猫発見。滞在中あまり見かけなかったので、少しうれしかった。

広い通りに出ると、元気な壁面緑化が組み込まれたビル。緑の勢いがあって、壁面に活気を感じる。

スーパーで、お土産にグミをたくさんを買った。地元のスーパーには色々なものがあって楽しい。寿司らしきものがあった。よく見ると、ネタは寿司というよりもおかずという感じ。寿司のネタと言えるのは卵とサーモン(らしきもの)くらいか?カニはカニカマで表現されているようです

帰りも、ホテルから空港までGrabで移動。今回の旅行は、移動のストレスがほとんどなかったのが良かった。前回のタイ旅行では、出国時のチェックインがぎりぎりだったので、余裕をもって空港に行ったが、出国手続きを終えて、ゲートの中に入ってから、途中でチェックがあったため、やはりギリギリになってしまった。

2泊3日のマレーシア、クアラルンプールの旅。クアラルンプールはこのくらいの日数で丁度良かったと思うが、時間的に余裕があれば、リゾート地ペナン島や、世界遺産でもある歴史ある海峡の街マッラッカ、マレーシア最高峰(標高4,095m)の山キナバル山なども行ってみたかった。

民族

多民族国家であるマレーシアは、現在、マレー人、華人、インド人などが主な住民となっている。人口比率は、マレー系65%、華人系24%、インド系8%である。華人系マレーシア人の多くは広東語や福建語、客家語、潮州語などの南方系方言であり、中国本土の標準中国語とは意思疎通ができないほど言語が異なるが、多くの華人系の子女は中華系の学校に通い標準中国語を学んでいる。

華人系には英語のみを母語とする家計が存在、彼らは、英国統治下に「英国人」として海峡植民地(ペナン、マラッカ、シンガポール)において支配階層を形成していた華僑の末裔であり、プラナカン(海峡/英語派華人)と呼ばれる。中国本土との関わりは歩頓悟なく、シンガポールやインドネシアに住む華人グループとの結びつきが深い。シンガポールの初代首相リー・クアンユーは、プラナカンの代表的な人物である。

マハティール元首相は母親がマレー系、父親がインドからの移民である。

印象としては、多数を占めるマレー系の住民が、国全体の主導権を握っているような印象を受けた。ホテルで見たテレビなどは、ほとんどがマレー語のようであった。また、クアラルンプールの郊外にあるマレーシアの首相府の横にはイスラムの寺院があるなど、マレー系が政治に大きくかかわっている様子が垣間見える。

マラッカ

マラッカは、1511年にポルトガルが征服し、東南アジアにおけるポルトガルの拠点となった。かのフランシスコ・ザビエルはマラッカから東アジアに布教に出発したという。その後、1641年にオランダ東インド会社がマラッカを占領した。1824年には英蘭協約で、スマトラ島のイギリス植民地と交換にイギリスに譲渡されたとのことである。歴史的には、クアラルンプールに比べ、様々な国の支配下にあり、変遷してきたようである。機会があれば、是非訪れてみたい都市である。また、クアラルンプールとシンガポールの中間に位置するため、シンガポールからも行きやすいため、シンガポールに行く機会になるかもしれない。

マラッカについて調べていると、日本人ヤジロウという人物が出てきた。薩摩出身の日本人であり、日本人として初めてキリストの洗礼を受けた人物である。彼の導きで、ザビエルは日本に布教に向かったらしい。