ちょい旅 最近の横浜中華街

2024年11月21日 101.6km

天気が良いので、バイクでの外出日和。でも、12月も近づき少し寒くなってきたのであまり遠くに行くのは気が重い。ということで、横浜中華街に行くことに。

愛車のセローのエンジンをかけようと思ったら、バッテリーが上がり(泣)、横浜まで走れば、充電もされるだろうと思い、とりあえず、自宅でエンジンを始動し、横浜に向かった。

40分ほどで中華街につくと、大勢の人でにぎわっている。歩いている人の様子を見ると、以前の中華街とは少し違う。多くの人が、立ち食いをしている。年配の人は少なく、大学生くらいの年齢、子供連れの若い夫婦。若いカップルなど、ベビーカーの屋根に小籠包を置き、路上で立ち食いスペースとして楽しんでいる夫婦もいる。

中華街大通りは、人通りも多いので、通りで立ち止まっての飲食をしている人はいないが、店頭販売している店の前の歩道は、立ち食いスペースになっていた。また、その近隣の店の前も立ち食いスペースになっている。

店頭販売され、立ち食いしているのは、目についたものとしては、イチゴを串刺しにしたもの、ジーパイ(鶏肉を薄く広げた揚げ物)、小籠包、肉まん、イカを串にさしたものなどである。

10年ほど前から目にするようになった。チャンピオン肉まん。看板には「中国料理世界チャンピオン」って書いてあるが、同じ店に4人ものチャンピオンいるってスゴイよね!

パンダ饅頭、かわいくて買いたくなってしまう。

ジーパイと小籠包、食べ歩きの

どこで食事にしようか?悩みながら歩くのも中華街の楽しみの一つ、この日は、市場通りをまっすぐ進み、人混みがとぎれたあたりにある満来亭、ここは、自家製の麺の販売も行っている。

麺が二玉で200円。スープも売っているので、本格中華のラーメンが家でできる!

小さな通り、香港路には老舗の海員閣がある、wikiによると海員閣は、1936年創業と、中華街でも最も古い部類の店の一つとされている。小津安二郎が日記にも足を運んだと書いているらしい。また、順海閣はシュウマイ発祥の店として有名である。自分の記憶では、この通りに安記(あんき)というお粥の店がおいしかった記憶がある。

コンペ 西大泉老人保健施設

2012年に実施された練馬区の150人が入所可能な老人保健施設です。選定いただき、実施設計をすることになり、基本設計までは完了したのですが、諸般の事情により、中止となってしまいました。

2011年に起きた東日本大震災の影響から、全国で建設費が高騰し、東京都の補助事業として進められていた医療福祉施設が相次いで入札不調となったため、この計画も、建設費が扶桑くするだろうという見通しから、計画が中止となってしまいました。

東京都の方で、判断したようですが、もっと、建築の専門家であるこちらに相談して欲しかったと思いますが、当時の担当者にはそういった思考がなかったようで、非常に残念でした。

ちょい旅 角川武蔵野ミュージアム

2024.11.4

三連休の最終日、所沢へ行ってきた。所沢は、もう26年前くらいにいったきり、久しぶりの訪問である。以前行ったときは練馬から西武線で行ったので、さほど時間はかからなかったが、墨田区から車で行くとなると、1時間半ほどかかった。首都高から関越自動車道を通って、本来、順調にいけば1時間ほどでつくのだが、所沢ジャンクションで降りるべきところを行き過ぎて川越まで行ってしまった。

目指したのは、角川武蔵野ミュージアム。出版社として有名な角川により、建てられた。パンフレットによると、「角川武蔵野ミュージアムは、図書館、美術館、博物館、を”まぜまぜ”にした複合文化施設です。」とある。

現地についてみると、一目でそれとわかる異形の塊が見えた。開口部を持たない、石の塊のような外観は、東京郊外の戸建て住宅と、適度に残る緑の中で、容易に存在を知らせてくれる。

縦と横の比率が通常の施設よりも高さが感じられ、また、その造景は、直線により構成されてはいるが、人工物というよりは、不作為な印象を受ける。

ところざわサクラタウンというエリアの一部が、ミュージアムとなっているが、駅からのアプローチ側にある公園のレベルで全体が結ばれている。アプローチ側の公園と、さくらタウン全体の駐車場は、ところざわサクラタウンの対角線に位置、この二つを結ぶ動線が2階レベルのペデストリアンデッキで結ばれている。

この対角線上に歩いていて、気づくのだが、当初目指していた角川武蔵野ミュージアムは、ところざわサクラタウンの一部であり、この複合施設全体には、角川書店の出版部門、印刷工場、ホール、ショップ、レストラン、神社、N高等学校のスクーリングスペースなど、様々な施設が入っている。ところざわサクラタウンは、「日本最大級のポップカルチャーの発信基地」となっており、角川武蔵野ミュージアムは、単なる美術館ではないことに気づき始める。

そして、[ところざわサクラタウンは、KADOKAWAおよび、角川文化振興財団が所有、運営する複合施設であり、所沢市との共同プロジェクト「COOL JAPAN FOREST構想」の中核施設として2020年にオープンした新しい施設である wiki]

駐車場側のペデストリアンデッキから

新たな神社「武蔵野令和神社」建立

2階レベルのペデストリアンデッキで、反対側に行くと、駅からのアプローチにつながる。こちらからは、神社が来る人を迎える。この神社は、武蔵野令和神社といい、ところざわサクラタウンという、複合文化施設が計画されたとき、角川書店の角川会長がこれだけの複合施設には神社がいるだろうということで、創建された。デザイン監修は、ミュージアムの設計者であもある隈研吾さんである。

手水鉢も丁寧にデザインされ、参拝の作法をデザインに取り入れ、水辺の空間を作り上げる隈研吾さんの神社設計の巧みさが伺える。

この神社は、令和になってからの創建ということもあり、その設定は、口承などではなく、出自がはっきりとしており、誰が、どういう意図で、何を言ったかが残っているので、神社の成り立ちを知る上でも興味深い。

以下は、この神社のホームページからの引用である。

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主祭神:天照大御神(あまてらすおおみかみ)
相殿神:素戔嗚命(すさのをのみこと)

鎮座される二柱の御祭神を総称して「言霊大神(ことだまのおおかみ)」と申し上げます。
〈正式名称:武蔵野坐令和言霊大神(むさしのにますうるわしきやまとのことだまのおおかみ〉

「言霊大神」とは、文芸・芸術・芸能といったコンテンツの表現に顕れる神の御稜威(みいつ:神の威光)のことです。
詩歌や小説、音楽や絵画、映画や舞台、アニメ・コミック・ゲームなど、 やまとの国=日本で誕生するハイカルチャーからポップカルチャーまで、 学術(アカデミック)から娯楽(エンタテインメント)まで、 すべてのコンテンツに宿る神威を尊称して「言霊大神」とその御名を申し上げます。

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おみくじがたくさんあった

さて、いよいよ、ミュージアムに入ってみよう。ミュージアムは、本自体を展示物として見せる部分と、モネなどの絵画を見せる部分からなる。すべてを見る共通チケットは平日3100円、休日3500円。絵画を除いた本の部分だけだと、平日1400円である。

まず、エレベーターで、最上階の5階に行く。表紙を見せるタイプの本棚。縦の部材が、表紙面を見えないようにし、本棚の木質が視界を占める。武蔵野の雑木林をイメージして、木がメインということなのだろうか?

かつて武蔵野に居たというダイダラボッチ

高さ8mの書棚

プロジェクションマッピングは、1時間に3回上映される

ミュージアムというと、日本語では美術館、博物館という意味が一般的だが、図書館という意味を持たせてもいいのではと思うほどの本の見せ方が多様で面白い

2階はラノベ(ライトノベル)図書館。日本最大のラノベ図書館とのこと。ここは、蔵書数を収めるため、整然と並べられている。

建築のディティールをいくつか紹介。まずは、カウンター

トイレのピクトサイン。男女の表現がほのぼのとしている

2階エントランスの階段と手摺、落下防止の金網を拡張して、ライティングによりスクリーン上に見せている。金網の端部は、切りっぱなしの部分がないように処理してあった。

お昼は、ところざわサクラタウンを出て、山田太郎という店で、みそタンメン800円とライスとチキンのセット250円。入店してから調べると、埼玉で有名なの山田うどんの系列店だった。であれば、斜め向かいの山田うどんでもよかった

池原義郎が設計した礼拝堂、1973年竣工。屋根が特徴で、木製であり頂部のガラスのボックスは昼は光を中に入れ、夜は中の明かりが外に漏れるという。

礼拝堂は霊園のなかにあり、入り口付近には、新たな礼拝堂と事務スぺースが入った建物が立っていた。

138km。6時間

マレーシア クアラルンプール

今年の北半球は、観測史上で一番暑い夏だったらしい(ロイター)が、そんな中、日本よりも暑いのではないかと思われるマレーシアに行ってきた。しかし、今年の8月の東京とクアラルンプールの気温を調べてみると(気象庁ホームページ

月平均気温東京39℃、クアラルンプール28.2℃、

月平均最高気温では東京33.6℃、クアラルンプール32.7℃

なんと、東京の方が暑かった!ちなみに東京は北緯36度、クアラルンプールは赤道の近くであり北緯3度である。ちょっとした避暑だったかも(笑)

飛行機は、羽田発のLCC、エアアジア。昨年タイに行ったときに飛行機の中が寒かったので、今回は半ズボンではなく長ズボンをはいていったので寒さを感じることはなかった。

空港は、クアラルンプール国際空港、到着してからゲートを出るまで歩く距離が、とにかく長かった。一体、誰が設計したのだと思っていたら、長男が、黒川紀章と教えてくれた。

この空港は、当時のマハティール首相が主導し、それまでの空港をから新たに建設された。「森の中の空港、空港の中の森」をコンセプトに日本の建築家、黒川紀章が全体計画とターミナルの設計を担当。メインターミナルを大成建設、サテライトを竹中工務店が施工を行った。

自分の好きな黒川紀章が設計していたこと、当時のアジアの大プロジェクトを設計と施工両方を日本が担っていたことなど、今日においては非常に感慨深い。

さて、空港からクアラルンプールまでは43km離れている。通常であれば迷わず鉄道で向かうのであるが、事前に調べた情報では、マレーシアではGrabというサービスがあり、行先と人数をアプリに入れると、近くにいる車が、値段を提示してくるという。早速次男がアプリで調べてみる。高速鉄道の料金と比べてみると、5人で移動するのであれば、断然Grabの方が安い。しかも、ホテルまで連れてってくれるという。これは、迷わずGrabでしょう!

結局、クアラルンプール滞在中、列車やバスは一切使わず、移動は、徒歩または、Grabであった。旅先での移動のストレスが劇的に減った。こういう点は、日本ももっと進んでほしいと思うところであるが、既存の交通システム(電車、バス、タクシー等)との調整が難しいのだろうな~

ただ、5人乗車の場合、3列目のシートが狭いので、だれが3列目に乗るかという点が課題になった。ちなみに、空港からホテルまで私が3列目に乗ったが、超エコノミークラス症候群になる狭さであった(笑)

一日目は、朝早く、クアラルンプールについたので、一日目からしっかり観光が可能だ。ホテルについて、荷物を預けようとフロンに声をかけると、チェックイン前に荷物は預からないという。自分の英語力ではそういう結論になってしまった。そんなはずはないという次男の意見もあり、もう一度フロントに言うと今度はすんなり預かってくれるとのこと。どういうこと?

結論としては、自分かフロントのどちらかの英語力に問題があったということか(笑)

さて、荷物を預けて、町の中心地方面に歩く、途中、屋台や路面に面したジャラン・アローとう屋台通りにあるホテルのレストランでモーニングを食べた。ジャラン・アローは夕方から屋台がにぎやかになり始め、チキンライス、肉骨茶、空心菜炒め、かき氷などが安くておいしいローカルフードが楽しめるらしい。

近くの繁華街ブキビンタンに近づくにつれ、両替所が増え、大きな交差点には伊勢丹が立っていた。勢いのある時の日本が建てたのだろうなと思い。戦国時代に東南アジアに日本人町が出来たことなどと重なる。

両替をした後、高島屋の前でGrabに乗り、パドゥ洞窟へ。ここは、ヒンドゥー教の寺院が大きな洞窟の中にある。まずは、階段をひたすら上る。

大きな洞窟は上から水が滴り、水の滴った結果つらら上の石が上部から垂れ下がり、落ちてこないかと心配になるほど。

ヒンドゥ教の寺院の宗教施設は初めての経験。ここはその中でも特殊とは思うが、強烈な印象に包まれた。写真の左手にお祈りの空間があり、靴を脱いで祭壇に向かう。洞窟の中ということもあるが、足元が濡れながら足を進めるのは、今まで、どの宗教施設でもなかった経験だった。寝不足の身にとって、日中の暑さと、階段の上り下りですっかり耐力を消耗してしまった。寺院を出てまたGrabで中心街に戻る。パビリオンというショッピングセンターのフードコートで昼を食べ、事前に申し込んでおいたペトロナスツインタワーのツアーに向かった。

最上部の展望台スペースから、ツインタワーの片割れを望む。1996年に完成したというから、もう28年もたつのか?設計は、アルゼンチン出身のアメリカの建築家シーザー・ぺリ。日本国内でも、アメリカ大使館をはじめ多くの建物のデザインをしてきたが、このタワーのデザインはシーザー・ペリの設計した建物の中でも突出した出来栄えである。マレーシアというアジアの一都市に立つビルが、こんなにも町のシンボルとなり、その象徴性により、ビルがこの町を代表しているような、まちのシンボルがこのビルであるような、分かちがたい存在になっている。このような建物は、近代建築より後では、それほど多くはない、シドニーのオペラハウスとこの建物くらいではないだろうか?

遠くから見ると、ある種の宗教施設のようなシンボル性を持つが、その宗教性が、どの宗教のどの部分を象徴しているのだろうか?上部に行くに従い段階的に小さくなっていく形状はヒンドゥの寺院を思わせる、ツインタワーは、イスラム寺院のミナレットを想起させる。差民族、他宗教国家であるマレーシアならではの意匠を意図したのだろうか?

この日はとにかくよく歩いた、29,194歩、たぶん今年一番の歩数だと思う。

次の日は、ホテルの向かいの食堂で朝食。次男の後ろの店員が親切にメニューを説明してくれた。火の通った、炒め物や温かいミルクティなど、おなかに優しいものを頼んだ。

この後は、イスラムの寺院も一つは見ておきたいということで、いわゆるピンクモスクといわれるプトラジャヤにあるプトラモスクというモスクへ行った。確か、イスラム寺院というのは四隅にミナレットという塔が立っていると学生の時に教わった気がするが、この寺院では大きな塔が1つ立っていた。新しいモスクなので、革新的な配置となっているのだろうか?

完成は1999年と新しく、マレーシア首相府の隣に位置し、ピンク色は花崗岩の色だそうだ。内部は、正方形の平面からドームを持ち上げるイスラム寺院特有の構造に倣っている。古代から伝わる組積造による構造的な特徴が現代の寺院の意匠として継承され、荘厳な雰囲気を作り出している。

世界各国から、もちろん日本各地から観光客が来ているらしく、訪問者の出身地をピンで示している。台湾からの訪問者が多いみたいで、地図の台湾の地図が見えないほどのピンが立っていたのが面白かった。

この日も歩数が多く、まだ昼だというのに疲れてきた。Grabで中心地方面のチャイナタウンに向かった。中華系のものというよりは、いろいろなものがいろいろな人たちが売っているところである。本物かどうかわからないが、私は。ここでモンブランの100mlの香水を手に取った。あまり買う気はなかったのだが、いくら?と聞くと250RM(8250円)という。いらないと言うと200RMにするという。それでも立ち去ろうすると、こちらについてくる100RM(3300円)なら買うよというと、それでよいというので、買ってしまった。

その後、おなかがすいたので、たまには、有名な店に入ろうかと思い。チキンライスで有名なナム ヘオンという店に入った。ここは、ミシュランのビブ・グルマンにも出たという店らしい。

午後のイスラムは、イスラム美術館。Grabで移動。

イスラムは、ずいぶんと美意識がたかいのだなぁと感心してみて回った。ふと、正面玄関の自動扉の下部に目が留まった。

この後は、セントラルマーケットから、徒歩でチャイナタウン周辺をぶらぶら、スリ マハ マリアマン寺院を外部から眺めた。この寺院はクアラルンプール最古のヒンドゥ教の寺院で、1873年に建てられ、その後、1973年に建替えが行われたらしいwiki。隣の建物とも一体化して、町全体に同化しているよう。wiki

夕食は、最後に、しっかりちゃんとしたものを食べようと思い。客家飯店に。店名にもなっているように中華系の客家の子孫がやっているのだろうか?一人で円卓で食事をしているのは、この店の重鎮のようで、私たちが、店に到着した時の行列をあちこちのテーブルにさばいていた。私服を着ていることから従業員というよりはオーナーなのだろうか?愛想は良くないが、最後に会釈をしてくれた。

この日の歩数は20,227歩、昨日よりは少ないが、よく歩いた。

今日は最終日なので、朝食を近くで食べてあとは空港へ向かうのみである。せっかくなので、多民族国家であるマレーシアの醍醐味を味わおう。という、気持ちもあり、次男が心惹かれて町角のイスラミックな感じのオープンタイプの店に入った。飲物は、氷入りの冷たいものはお腹を壊しそうなので、ホットミルクティにして、食事はラム肉とライスのセットにした。ラム肉は骨の周りに肉がついたもの。骨をつかんで漫画に出てくる肉のような感じでほおばる。味は臭みもなく、肉をたっぷり食べることができた。少し気になったのが肉の骨の付近が赤かったような、、、

朝食を食べ終え、地図に表示されるスーパーを探して歩いていると、猫発見。滞在中あまり見かけなかったので、少しうれしかった。

広い通りに出ると、元気な壁面緑化が組み込まれたビル。緑の勢いがあって、壁面に活気を感じる。

スーパーで、お土産にグミをたくさんを買った。地元のスーパーには色々なものがあって楽しい。寿司らしきものがあった。よく見ると、ネタは寿司というよりもおかずという感じ。寿司のネタと言えるのは卵とサーモン(らしきもの)くらいか?カニはカニカマで表現されているようです

帰りも、ホテルから空港までGrabで移動。今回の旅行は、移動のストレスがほとんどなかったのが良かった。前回のタイ旅行では、出国時のチェックインがぎりぎりだったので、余裕をもって空港に行ったが、出国手続きを終えて、ゲートの中に入ってから、途中でチェックがあったため、やはりギリギリになってしまった。

2泊3日のマレーシア、クアラルンプールの旅。クアラルンプールはこのくらいの日数で丁度良かったと思うが、時間的に余裕があれば、リゾート地ペナン島や、世界遺産でもある歴史ある海峡の街マッラッカ、マレーシア最高峰(標高4,095m)の山キナバル山なども行ってみたかった。

民族

多民族国家であるマレーシアは、現在、マレー人、華人、インド人などが主な住民となっている。人口比率は、マレー系65%、華人系24%、インド系8%である。華人系マレーシア人の多くは広東語や福建語、客家語、潮州語などの南方系方言であり、中国本土の標準中国語とは意思疎通ができないほど言語が異なるが、多くの華人系の子女は中華系の学校に通い標準中国語を学んでいる。

華人系には英語のみを母語とする家計が存在、彼らは、英国統治下に「英国人」として海峡植民地(ペナン、マラッカ、シンガポール)において支配階層を形成していた華僑の末裔であり、プラナカン(海峡/英語派華人)と呼ばれる。中国本土との関わりは歩頓悟なく、シンガポールやインドネシアに住む華人グループとの結びつきが深い。シンガポールの初代首相リー・クアンユーは、プラナカンの代表的な人物である。

マハティール元首相は母親がマレー系、父親がインドからの移民である。

印象としては、多数を占めるマレー系の住民が、国全体の主導権を握っているような印象を受けた。ホテルで見たテレビなどは、ほとんどがマレー語のようであった。また、クアラルンプールの郊外にあるマレーシアの首相府の横にはイスラムの寺院があるなど、マレー系が政治に大きくかかわっている様子が垣間見える。

マラッカ

マラッカは、1511年にポルトガルが征服し、東南アジアにおけるポルトガルの拠点となった。かのフランシスコ・ザビエルはマラッカから東アジアに布教に出発したという。その後、1641年にオランダ東インド会社がマラッカを占領した。1824年には英蘭協約で、スマトラ島のイギリス植民地と交換にイギリスに譲渡されたとのことである。歴史的には、クアラルンプールに比べ、様々な国の支配下にあり、変遷してきたようである。機会があれば、是非訪れてみたい都市である。また、クアラルンプールとシンガポールの中間に位置するため、シンガポールからも行きやすいため、シンガポールに行く機会になるかもしれない。

マラッカについて調べていると、日本人ヤジロウという人物が出てきた。薩摩出身の日本人であり、日本人として初めてキリストの洗礼を受けた人物である。彼の導きで、ザビエルは日本に布教に向かったらしい。

ちょい旅 【建築探訪】隈研吾さん設計の廣澤美術館

2024.10.6

今年の夏は、「北半球、観測史上最も暑い夏に昨年の記録更新」(ロイター)とのことで、

外での活動も控えていましたが、ようやく、涼しくなってきたので、少しだけ遠くに行ってきました。

目指すのは、茨城県筑西市の廣澤美術館(2021年竣工)。東京の墨田区から片道75kmと適度な距離、しかも少し曇り気味でちょうどよい気温。予報では、雨も降らないようなので、バイクで出発。

バイクは久しぶりなので、案の定、バッテリーが上がってエンジンがかから

ない(笑)。携帯バッテリーを接続してエンジン始動!とりあえず出発できるようにして、まずは、エンジンを止めないように走り続け、常磐自動車道の守屋サービスエリアまで約30kmを走った。その後、谷和原ICで高速を降り、R294号を北上。

小腹もすいてきたので、昼食にしようと思い、ガッツリ食べたいなと思ったところで横浜家系ラーメンの看板が見えたので、迷わずバイクを止めた。

横濱家系ラーメン 幸屋(こうや)水海道店でラーメン900円とライス150円で小腹を満たし、目的地を目指す。

ナビに導かれるままに幾度か曲がり、到着。途中。大きな看板は無い。なぜなら、廣澤美術館は公的な美術館ではなく、私立の美術館なのである。

門のところに、品の良い感じで館名が切文字で取り付けられている。文字が門になじむような色使いである。

控えめのサイン。通り過ぎてしまったが、近づくと廣澤美術館であると確認できた。

外観は、平屋建てのこじんまりとした建物。美術館であることを外部にアピールするようなシンボル性はないが、巨石を壁のように並べた端部に、木の軒天が、普通ではない雰囲気を漂わせている。

エントランスは片流れのシンプルな屋根が、人を迎え入れるように、こちら側が水上になっていて、軒天が近づく者によく見えるようになっている。

大量に積まれ建物を覆い隠している巨石を除けば、この軒天が、美術館建築として認識できる唯一の人工物となろうか。それだけに重要な造形である。

構造と、意匠はシンプルに見える。建物本体から延びる、水上と水下のスチールの片持ち材に垂木が接合している。垂木は細長い断面形状を持った台形が、下端の見つけが薄くなるように取り付けられている。端部の小口は、切りっぱなしのようであり、雨係(あまがか)りに配慮してか、少し内側になっている。

軒天の雨係りについては、上から降る雨を避けている設計を良く見かけるが、雨を避けているようであっても、小口が痛んでいるのを目にする。どの程度、雨係りに配慮するかは難しいところである。やはり、外部である以上、雨が係ることを前提に木部の処理が必要ではないかな?と思う。

築3年にしては、木部の劣化が進んでいるような印象だったが、今後どのように変化が気になる。

内部空間は、片流れのシンプルな空間が、平面的に三角形に配置され、その内一辺がエントランスホール、他の二辺が展示スペース。三角に囲まれた部分が、倉庫、トイレなどになっている。

面白いのは、そう思ったのは自分だけかもしれないが(笑)、三辺それぞれ外部から見える計画のためか、内側の三角の一部が、室外機置場として外部空間になっている。室外機置場のためだけに中庭になっているとすれば、ある意味贅沢なつくりだなって思う。

内部の展示空間は、エントランスの軒天と同じ天井が連続し、高さのある根太の間に照明が、設置され、照明器具の存在は全く感じなかった。

この美術館のオーナーについて少し紹介すると、オーナーの廣澤清氏は、金属プレス加工や精密金型の製作会社広沢製作所を母体とした総合企業グループ広沢グループの代表。

一通り、見て回ったところで、時折、シニアカーに乗った高齢の男性とすれ違った。もしやと思い、スタッフの方に聞いてみると、この美術館のオーナーの廣澤氏だった!

スタッフの方は、「どうぞ、声をかけてあげて下さい」と言っていたが、その機会を逸してしまい、とても残念な思いをした。この廣澤氏から、隈研吾に連絡をとって、美術館の設計を依頼したらしい。隈研吾は、敷地を訪れ敷地に大量に横たわていた巨石を美術館の設計に利用したのだ。

今の隈研吾と言えば、世界各地でプロジェクトが進行中の建築家。美術館を含め巨大施設の設計も数多く手がけている。その多くは公共のものであり、地方自治体が発注者であるものが多いと思う。そんな建築家に直接、自らの美術館を発注するとは、今回の建築探訪は、施主の廣澤さんのクローズアップもしたくなった。

地震後の宿泊施設の被害状況、建築年による違いが明らか!能登半島地震の実例から見えた課題

2024.10.11

2024年1月1日、能登半島地震発生

私達の生活・仕事の場となっている建物について、地震に対してどの程度安全か考えたことありますか?

今年の1月に起きた能登半島地震は、輪島市において、最大震度7の震度を記録した大地震でした。実際に、現地で確認した様子をもとに、建築年代別にどのような被害だったかを、簡単にまとめてみました。

建築年代により異なる被害

建築年により四つの区分に分けることができ、それぞれ、建築年により被害の程度が、明らかに違うことが確認できました。

①建築基準法ができる以前にできた建物 ~1950

②建築基準法ができてから1981年までにできた建物 1950~1981

③1981年より後にできた建物 1981~2001

④2001年より後にできた建物 2001~

それぞれの建築年のよる違いについて少し詳しく説明したいと思います。

①については、耐震性はほとんどないと思ってもらって良いです。いわゆる古民家などがここに分類されます。写真の古民家は、輪島市の伝統的な建築として、輪島市景観重要建築物の指定されていましたが、地震後は、残念ながら、倒壊してしましました。

②については、旧耐震(きゅうたいしん)と言われ、耐震性は極めて低くなっています。地震後は、大破し、使い続けることは困難で、建替えなければなりません。

③については、新耐震(しんたいしん)と言われ、一般的には耐震性が高いと言われています。大きな地震が来た時、中にいる人の命は守ってくれる強度はありますが、地震後に建物を使い続けることはできなくなる可能性が高いです。この建物も営業を続けることはできなくなっていました。

④は、ほぼ現行の耐震基準となっています。新耐震基準で不足している部分を補っています。地震後も、被害は、ほとんどなく、営業も問題なく続けられていました。

いづれの基準を満たした建てものが良いのでしょうか?

命を守りたい場合、自分で所有している場合、被災後の事業を継続したい事業者の場合など、建物を利用する方により、要求される水準は違うかと思います。

③の新震基準の建築については、地震後、とりあえず、建物の中にいるいる人の命は守ってくれる可能性は高いです。しかし、地震の後は、建物は使えなくなる可能性が高いでしょう。

かなや設計

タイ バンコク

初めてのタイ🇹🇭

不安な出発

初めてのタイ。飛行機の出発時刻は朝の9:15

分、決して早くはないが、海外への飛行機なので出国手続きを考えると、3時間前には空港についた方が良いと、ガイドブックには書いてある。5:09発に最寄りの駅を出発する予定で、駅に向かう。忘れ物がないように出発したのだが、駅に着く直前で財布を忘れたことに気づいた。

戻って駅に行くと、特急との接続が良い電車が無い!各駅停車で成田空港に着いたのが、9:07。エアアジアのカウンターに行き、「どのくらい前にく来れば良いのですか?」と聞くと、搭乗の20分前に、ゲートに入っていれば良いとのこと、3時間前なんて時間の無駄と認識、この経験を次回に活かして、無駄に早く空港に来ることをないようにしよう。と、思った。この認識が、後々、大変なことになる。

飛行機に乗ること7時間。タイとは時差が2時間あるので、現地時間のあ14時にバンコク、スワンナプーム空港に到着。

スワンナ・プーム空港に着くと、入国審査のゲートには大勢の旅客が並んでいて30分ほど時間がかかり入国。空港は比較的新しい。マーフィー・ヤーンの設計らしい。

スマホは、2週間前にNTTドコモのahamo

に変えていたので、ネットに関しては、そのまま使えた。

まずは鉄道に乗って、バンコクの中心部に移動。終点のパヤタイ駅まで30分で到着。そこから、BTSに乗り換えてトンロー駅の宿に向かいます。ここまでの鉄道は地上を走るので、景色が見えて気持ちが良い。

バンコクに滞在中は、トンロー駅から徒歩5分のところにある宿に泊まることにした。トンローは、日本人が多く、日本料理屋も多い。airbnbで5人で3泊8万円程度である。

宿のホスト、Khet Watthanaさんとなっていましたが、airbnbのサイトで近くの物件を見ると、ほとんどが同じ名前であった。かなり手広くやっている感じ、評価は、★4.85のスーパーホストであった。暗証番号での入室に手こずっていて、入れないのを見ると、隣のおじさんがWatthanaさんに電話をしてくれた。「私のおじです」というおじさんがスペアの電子キーを貸してくれて、入室できた。

牡蠣のパッタイ

トンロー駅近くのパッタイ屋、ホイトートチャウレーで夕食。通りに面して、オープンな調理スペースがあり、2人の男が調理している。タイの街角の料理屋は、調理スペースが店先にあるパターンが多かった。調理と支払いを少人数でできるからだろうか?メニューは、パッタイと、パリパリのクリスピー状の卵とじ、シーフード、チキン、牡蠣など数種類。パッタイは一つ100バーツ程度なので、日本円にして400円くらい。

自分はチキンを頼むが、家族は、妻も含めて皆シーフード、「チキンは無い」と言われ、結局全員シーフード。パッタイが運ばれてくると、妻が、「牡蠣が入っている~」と言う。牡蠣は以前アレルギーになったので、「牡蠣は、無しにしてくれ、妻は、牡蠣アレジーだから」と英語で伝えた。店員はわかったように、皿を下げた。しかし、出てきたものには同じように牡蠣が入っている。クリスピー状の卵綴じにもやはり牡蠣が入っている。牡蠣抜きでと、後でお願いしたのと、もともとの牡蠣入りのもので、テーブルの上は牡蠣だらけになってしまった。その皿をもって、店頭の店員の方へ行って長らく交渉している様子。らちが明かなくて、日本語がわかるというお客さんが間に入ってくれた。一日目にして、先が思いやられることになってしまった。

二日目、ワット・ポー

バンコクを代表する観光名所、ワット・ポーに行くことにした。バンコクで最大、最古の寺である。涅槃寺(ねはんじ)とも呼ばれ、涅槃仏で有名なお寺である。ワット・ポーは、ラーマ一世が建てるよう命じた王宮寺院。寺というのは日本の法隆寺などもそうであるが、当時の大学のような機能を有していて、ここも、様々な分野の学術書を寺院の周りに刻み込んでいることから、タイで最初の大学と考えられているらしい。

最寄りの駅に着くと、トゥクトゥクの運転手が、「ワット・ポーは今日は休みだ」と話しかけてくる。そのまま無視して歩いていく。当然休みではなく、信じた客をトゥクトゥクに乗せて観光案内をするぼったくりである。

ラーマ3世は、1831年に寺院の改修工事を命じ、各方面の知識を収集させたため、タイ初の大学とされる。医学の分野で、薬草の調合法や、マッサージのポイントを示した人体像、ルーシー・ダットンという健康体操の姿勢を模した像が残されている。現在敷地内には、タイ古式マッサージの学校があり外国人に人気である。利用者の8割が外国人である。マッサージ師に対して技能を証明する証明書の発行を行っており、マッサージ師の地位向上とタイのマッサージのブランド化が進んでいる。

お昼は、トムヤンクンとビール。熱い中、不思議とトムヤンクンは食べることができる。

おいしそうに見えたので、ココナッツジュースを頼んだが、だいたい、こんな顔になる

次に、タイで最も格式が高いというワット・プラケオを目指すが、そこの前まで歩いていき、おひるごはんを食べたら、もう寺院はいいかなということで、博物館を目指して歩いている途中に膨大な量の仏具屋街が現れ、時間を忘れて散策。

ちょい旅 千葉大多喜キャンプ

ゴールデンウィーク後半、キャンプに行ってきました。場所は、千葉県南部の大多喜町。大多喜町は、町のキャッチコピーは「城と渓谷の町」だそうです。

大多喜町の場所は、かの有名なチーバくんのおしりのあたり、海側の隣町は、朝市で有名な勝浦です。

最近3年のキャンプは、大多喜町です。墨田から

ちょい旅 長浜・彦根・近江八幡・名古屋

今回のちょい旅は、滋賀県と愛知県です。一般的な地域区分では、滋賀県は関西地方、愛知県は中部地方ですが、滋賀と愛知はお隣の県になります。

1日目:東京→長浜→彦根

2日目:彦根→近江八幡→名古屋

3日目:名古屋→東京

まずは一日目は、東京駅から新幹線に乗り、滋賀県の米原に向かいます。新幹線には新橋駅からの方が乗り換えが少なく便利なのですが、東京駅で好みの駅弁を買って車窓を見ながら向かおうと思い、わざわざ東京を出発地としました。お目当ては厚岸の「氏家かきめし」。ところが、駅弁を売っているところを見つけられず、やむなくシュウマイ弁当を買ってしまった。これはこれでおいしかったのだが、因みに、各地の名物駅弁と売っているのは、東京駅改札内1階の中央通路の「駅弁屋 祭」でした。調査不足が悔やまれます。

東京発の新幹線で食べる駅弁は崎陽軒のシウマイ弁当にしました
崎陽軒のシウマイ弁当 900円

新幹線に乗ること2時間10分。米原到着、更に在来線で10分程度で長浜へ到着、長浜では、古い町並みが残る「黒壁スクエア」を散策、骨とう品屋や、滋賀県初の学校「開智学校」、国内に現存する最古の駅舎「長浜鉄道スクエア」、フィギャアの「海洋堂ミュージアム」など、見所がたくさん。食事処は、長浜名物のっぺいうどんの「茂美志や」などを尋ねました。

滋賀県長浜にある滋賀県初の学校、開智学校
滋賀県初の学校「開智学校」
滋賀県長浜、黒壁スクエアの安藤家
古い町並み
滋賀県長浜の黒壁スクエアにあった骨董屋
見ていて飽きない骨董屋
滋賀県長浜黒壁スクエア
黒壁スクエア

黒壁スクエアの商店街で、関東ではあまり見たことがないお菓子があったのでお土産に買いました

花あわ雪
「花あわ雪」カラフルな見た目につい手が伸びました

「花あわ雪」長浜の地元のものと思いきや島根県で作られたものでした

長浜名物萬興の生姜糖
「萬興の生姜飴」ノスタルジックな外観につい手が伸びました

「萬興の生姜飴」裏を見ると創業明治3年と書いてあります。お菓子なのか怪しい薬なのか不明のパッケージ、味は、機会があればお試しください。

滋賀県長浜名物「茂美志や」のっぺいうどん
のっぺいうどんの「茂美志や」建物も古くて良い感じ
滋賀県長浜名物「茂美志や」のっぺいうどん
私(右)が食べているのが名物のっぺいうどん、次男はにしんそば
長浜の海洋堂フィギュアミュージアム
海洋堂フィギュアミュージアム

一日目は、長浜観光から、宿泊地の彦根に移動、実は、夕方に彦根城に行こうと思っていたが、疲れを感じ、彦根城攻略は翌日にして、この日は、ホテルで自転車を借りて、、彦根の堀沿いの桜を見ながら琵琶湖の夕陽を眺めるために琵琶湖に向かいました。

二日目、彦根城に向かいます。彦根城は、井伊直政が関ケ原の合戦の功績を認められ徳川家康より、ここを井伊家の城とすることを許されたとのことで、1603年に直政の息子が今の形に整備したものが現存しているという貴重なお城です。

日本各地にお城はありますが、当時の姿をそのまま残しているお城は意外と少なく、この彦根城もその中の一つで、世界遺産登録を目指していると、町のアチコチに書いてありました。

彦根城の天秤門
左右の石組みが違う「天秤門」
彦根城とひこにゃん
おなじみヒコニャンと「天守閣」
彦根城の天守閣から琵琶湖を臨む
天守から琵琶湖が良く見える
彦根城の鉄砲狭間
ここから鉄砲を撃つが、外壁側は塗りこめれれていて見えない
彦根城天守の入り口は大砲でも壊れない扉
天守閣の入り口の扉。「大砲でも壊れない」

二日目の午後は、彦根から電車で20分程の近江八幡へ移動。ここは、建築家のヴォ―リスの活動の拠点であることから、さぞかし、ヴォ―リスばかりがあるかと思いきや、いろいろな点で、自分の思い込みが打ち砕かれました。ヴォ―リス記念館は月曜が休館ということで、火曜日に訪れたのですが、現地についてみると、予約しなければ入ることはできないことを知り、玄関前で電話をし、2時間後に改めて訪れることにしました。

2時間後に訪れると、係の女性がビデオをつけてくれ、見終わると、元ヴォーリズ事務所の所員だったという恒例の男性が、ヴォーリズについてたくさんのことを語ってくれました。

まず、ヴォーリズの建築家像が、自分がおもっていたのとは違いました。ヴォ―リスが日本で相談にのった建築は3000を超える数だったとのことですが、一建築課がこれほどの数のプロジェクトにかかわることがまずもって、難しいということもありますが、ヴォ―リスはそれほど建築の勉強をしていたわけではなく、アメリカの大学で少しは勉強したようですが、途中で、地元のYMCAの活動を通してキリスト教の布教に関心を持ち、建築の勉強を辞め日本に来たようです。つまり、建築の勉強を最後までやったわけでもなく、どこかの事務所で修行したわけでもないのです。

では、何故、そのようなヴォ―リスが、国内にこれほどまでも設計事例を残せたのか?実際の設計事務所での役割は詳しくはわかりませんが、30~40人ほどのスタッフが、ヴォ―リスがアメリカから取り寄せた書物などを見ながら図面を書いて、金物やパーツを取り寄せ実現していったのではないでしょうか?

ヴォーリズは、交渉力に長け、人の信頼を得るのが得意だったようで、あらゆる場面で、クライアントやビジネス上のパートナー、私生活上の重要な関係者と信頼関係を積み上げていたようです。そういった意味では、きわめて優秀な建築家だったのかもしれません。これは、自分にとっても目からうろこなお話を聞かせていただいたと思います。

ヴォ―リスが晩年過ごした建物がヴォ―リス記念館になっている
ヴォ―リス記念館

さて、改めてヴォーリズ記念館に来るまでの2時間、近江八幡を散策することになりましたが、実は、近江八幡は、一般の人にとってはヴォーリズよりも、水路の町として超有名な観光地であることを、恥ずかしいですが、2時間の散策の1時間を経過した時に初めて知りました。

近江八幡は豊臣秀吉の甥(秀吉の姉の長男)豊臣秀次が築いた城下町で、いわゆる近江商人の発祥の地です。

近世の風情が残る八幡堀沿いの町並みや日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)境内地は近江八幡市八幡伝統的建造物群保存地区として、国の重要伝統的建造物保存地区に選定されmした。

また、堀の景観とは別に、水郷地域は景観法の景観計画地域の適用第1号に指定され、2006年には「近江八幡の水郷」として重要文化的景観の第1号に選定されました。

八幡堀について

近江八幡の堀
遊歩道のと堀は歩いていて気持ちが良い
近江八幡の堀
橋詰めの桜が見事です
近江八幡の堀
建物へのアクセスは道路側と堀からとだったのでしょうか
水があると何気なく心地よい
近江八幡の堀と桜
ちょうど、桜の季節でした。また行きたい
近江八幡たねやのつぶら餅で小休止
たねやのつぶら餅、経木のお皿もかわいい

因みな話、たねやは、建築も面白いです。近江八幡の別の店舗「La collina 2017」時間があったら行ってみたかったです。

名古屋のBUCYO COFFEE
名古屋の朝はモーニングセット
小倉モーニング750円
東海道の様子が残る有松町並み保存地区
有松町並み保存地区には、東海道が残っています
街道沿いの家を後ろから見ると庭がある
街道沿いの町家を後ろから見てみました
ニンニクがゴロゴロ入ったベトコンラーメン
ベトコンラーメン、これはスゴイ!

名古屋駅からタクシーに乗って久屋栄通公園へ、札幌の大通り公園と似ているイメージから、地下鉄で一駅くらいかと思いタクシーに乗ったが、意外と距離がありました。地下鉄の駅で2つ分(ちなみに札幌駅から大通公園は地下鉄で一駅)。タクシーの運転手さんに「オアシス21まで」と伝えると、「お客さん地元の人じゃにゃーわな?」「どうして?」「地元の人はオアシスなんていかんよ」とのこと。喋っていると河村市長と話しているような気分になる運転手さんでした。降りるとき5000縁を出したら、お釣りを8,600円くれるような気の良い方でした

オアシス21と名古屋テレビ塔
オアシス21 天空に浮かぶガラスと水の屋根
オアシス21を下から見上げる
空を歩く人
オアシス21は地価へ光と風を取り込む環境装置となっている
巨大なサンクンガーデン、地下に風と光を導いている
旅の終わりの新幹線でのプチ酒盛り
帰りの新幹線は当然、こうなります(^^♪

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ちょい旅 裏磐梯グランデコスキーリゾート

2023.2.5〜2023.2.7

毎年恒例のスキー合宿、今年も行ってきました。去年は、今まで10回以上行っているたかつえスキー場ではなく。裏磐梯のグランデコスキーリゾートへ行ってきました。ここは東急グループが運営するスキー場で、東急ホテルがゲレンデに隣接して建っている。コースの長さは最長で4000m、標高差は1010mから1590mと、580mである。

スキー場は、どこに行くかは毎年悩むところである。我が家のある墨田区だと東武線を使って会津方面というのが常だった。東武線が会津の野岩鉄道(やがんてつどう)に乗り入れているため、北千住で特急リバティに乗り換えると会津尾瀬登山口まで乗り換えなしで着くと、駅に迎えにきているシャトルバスに予約なしで乗ってすぐスキー場なのである。今回、期せずして、今まで行っていたたかつえスキー場の良かった点ばかりが見えてきて、道中、たかつえを懐かしむ話ばかりしていた。

まずは、家を出て、近くのバス停に迎う、乗り換えなしで上野駅まで行けるのと、朝早いため、朝食を上野のかっこ「つるや」で食べるためである。上野駅のバス停で降りると、歩いて20秒のところにつるやがある。

上野駅発には利用するつるや

つるやで朝食をすますと、横断歩道を渡るともうすぐ上野駅である。上野駅は、東北へとつながるターミナル駅である。列車の発着点となっており列車が行き止まり式のホーム「東端式(とうたんしき)ホーム」があるのが特徴である。欧米の大都市では各方面に向かうターミナル駅があるが、東京にはあまり見られない。上野が数少ないターミナル駅の様子を残しているのがこの中央改札になるだろうか?写真の改札を抜けると東北方面の行き止まり式のホームが並んでいる。私が学生の頃は帰省の際は、ここから急行八甲田に乗って青森に向かったのを思い出す。頭の中には「上野発の夜行列車降りた時から~♪」の歌が繰り返す。

東端式ホームは多くの線路を囲うように大空間を有していることから、コンコースは広く天井が高いことが多い、そのため、建築的にも魅力的な大空間となる。パリのオルセー美術館などは、1900年のパリ万博の開催にあわせて建設されたターミナル駅であったものを美術館として再利用している

北へ向かう列車に乗るとき人は文人になる

7:45上野発の新幹線にのり郡山までの1時間11分はあっという間に感じられるのは、新幹線好きの世代だからだろうか?

郡山で在来線に乗りかえる。郡山はほとんど雪はなかったが、山側へ列車が進むにつれ積雪が増え、ふと外を見るとすっかり雪国になっている。44分でJR猪苗代駅に到着。

読んでいる本からふと目を上げるといつの間にか、すっかり雪国!

JR猪苗代駅には、野口英世の等身大のパネルがあった。野口英世は、近くの猪苗代町出身の誰もが知る偉人であるが、実際何をやったかは、私自身良く知らなかった。子供のころ黄熱病の研究をした医者ということだったと記憶しているが、黄熱病に関する研究は間違いであったことが現代では定説らしい、ただ、細菌学者としては数多くの実績があり、ノベール賞に3度もノミネートされた偉人であることには変わらないようである。

偉人と一緒に写真を撮ると自分も偉人になれるのではという、わずかばかりの希望をもって自撮りです。

さて、猪苗代駅からスキー場からのシャトルバルに乗ること30分程で、目的のスキー場グランデコスノーリゾートに到着。ここは、開業が1992年、まさにバブル真っ盛りの時に計画され完成したスキーリゾートなのでしょう。わが国の多くの施設がバブルの時の遺産であることを実感します。いい意味で。

グランデコスノーリゾート・センターハウス

バブル時に計画的につくられたスキー場であることから、来訪者を迎えるセンターハウスがゲートとなっている。野沢温泉のように様々な施設が建って賑わいがあるスキー場とは対照的です。

スキー場は、吾妻連峰の西端に位置する標高1982mの西大巓(にしだいてん)の南側山麓に広がる。ゴンドラが1本、クワッドリフトが4本のスキー場である。ゴンドラとクワッドリフトを乗りついで山頂まで行くと、約4000mのロングコースが楽しむことができる。

標高1590mの最上部の雪質は神雪

一日目は、滑りはじめが12時頃、リフト終了までの16時まで、間に食事をして4時間滑りました。今年のスノボ合宿一日目は去年の勘を取り戻すように滑りました。

スキー場お楽しみの一つが食事なのだが、楽しみでもあり、ガッカリでもある。スキー場でも海水浴でも遊びに行った先の食事はいろんな意味で、がっかりさせられることが多い。だがしかし、ここの料理の質は高かった。同時にお値段も高かったのだが、、、一日目は地元喜多方ラーメンの名店が監修したという喜多方ラーメン1000円なり。やる気のないパートさんのやる気のない湯切りが印象的であった。

センターハウスのメニュー

さあ一日目を足慣らしでまったり過ごし、ホテルへ向かうのだが、これがややこしい、ここからまた、バスでホテルに移動しなければならないのだ。たかつえの時は、ゲレンデ直結でホテルだったのだが、このスキー場に直結するホテルは裏磐梯グランデコ東急ホテルのみ、今回申し込んだビッグホリデーのツアーの宿泊は違うホテルであった。この立地を事前に理解していれば、こちらのホテルの方が断然便利である。しかも宿泊期間中リフト券付き、ゴンドラも優先乗車とのこと、さすが東急!「東急による東急のための東急のスキーリゾート」であると言えよう。

我々の宿泊は裏磐梯レイクリゾートホテル。こちらも予約サイトではすこぶる高級感、高揚感が上がる写真が出ていたため、つい予約してしまった。500円/人のバスに乗り、こじんまりしたペンションや廃ホテル、外壁の汚れから古さを感じるホテルなどを眺めながら40分。実際に到着してみると、いきなり今までの建物群とは趣の違う建物が出現したではないか!

外観は、エントランス部分が奥にあり、その両翼の客室部分は手前になってるので、正面から見ると、エントランスに向かって消失点があるようにパースが利いている。通常の建物は、正面から両脇に消失点があるのとは反対なので妙な感じがする、10年ほど前の夏にこの辺りに車で来た時に見かけたことを思い出した。

今回一緒に来た14歳の三男がまだ一歳程度だったので、もう12年以上前になる。その割には、あまり古い感じがしないのは、しっかり管理されていることと、寒冷地における設計がしっかりしていいることもあるのだろう。

吹き抜けのあるロビーの床と壁は大理石

裏磐梯は、福島県北部にある磐梯山、安達太良山、吾妻山に囲まれた高原で、山や森、湖など自然に恵まれたエリアで、春は桜や新緑、夏は避暑、秋は紅葉、冬はスキーリゾートと季節ごとに多くのアクティビティを楽しめる地域であることから、リゾートホテルやペンションが多数立地している。

象徴的な外観

部屋は間口もゆったり取られており、窓下に温風の吹き出し口があり、寒さを感じずに快適に過ごすことができた。こういう空間は、デザインももちろん、空調や断熱への配慮があることが大切である。そのおかげが、結露やカビなどの跡も見られずキレイであった。

窓の外は林ごしに湖

食事は朝夕ともバイキング。

このホテル自体は、やはりバブルの時に開業したホテルであったが、そののち何度かの経営権の移転を繰り返し、2015年には「星野リゾート裏磐梯ホテル」から現在の「裏磐梯レイクリゾート」としてリニューアルし、現在は株式会社ベルーナ(本社:埼玉県上尾市)の子会社ネコマホテル株式会社が運営している。客室数324室の裏磐梯エリア最大級のホテルである。

ホテル宿泊のもう一つの楽しみは温泉。日本には温泉があるから日本人で良かったとさえ思う。円弧上の浴室は窓の外に湖が見える。季節は冬であったので、大きな屋根の軒先には立派なつららがびっしりできていた。設計者はつららができるように設計しているのではないかと思うほどの立派なつららであった。露天風呂もすこぶる心地よかったが写真を撮ることはできなかった。

行ったときは窓の外につららがびっしり
ぬるめのお湯と凍った湖面を渡る風が心地よい

ホテルのでは、他にもビリヤード、バー、カラオケ、卓球などが楽しむことができる。

バーに併設のビリヤードスペース

ホテルで英気を養って翌日は、朝から最終まで滑りました。ただ、ホテルからスキー場に向かうバスは8:00発と10:15の二本のみ、中間の瓶が欲しいところであるが、この二便さえ、今後あるかどうか疑わしい。なぜなら、このバス、利用客がほぼいない、10:15の便に乗ったが、我々の他に乗客はいない。大型バスのを乗っ取ったような不思議な感覚だった。合計4回乗った内2回が占拠状態であった。

乗客は我々一行3名のみの贅沢
一日目のGPSによる距離。リフトやゴンドラに乗っているので滑ったのはこの半分位

ちょい旅 湯西川温泉

2023年正月。2日から一泊二日で栃木県北部の秘湯、湯西川温泉を訪ねました。

ここは、以前から気になっていたところ。というのも、10年ほど前から会津方面にスキーに行く途中、トンネルの中に湯西川温泉駅があって、そのトンネルの中の駅で多くの人が乗り降りするのです。地上の様子がわからない地中で人が乗り降りするという不思議な記憶が、湯西川温泉への興味の始まりです

人づてに、そこは、秘湯であるとか、平家落人の集落であるとか聞くに及び、俗世離れした謎の地をいつかは見てみたいとの気持ちが募っていたのです

今回は、鉄道ではなく、車で向かうことにしました。現地では雪が積もっているようなので雪道対策を考えなければなりません。雪道対策は、スタッドレスタイヤかチェーンの二択ですが、手軽さとコストを考え、今回はチェーンを使うことにしました。

チェーンは文字通り本来は金属製のチェーンをタイヤに巻き付けるものなのですが、ネットで調べると、最近はチェーンにも色々なタイプがあるようで、ゴムのネットのようなもの、繊維をタイヤに巻き付けるものなど、装着しやすさ、効き目などの付加価値をうたったチェーン以外のチェーンがたくさん紹介されています。でもそこは欲張らず廉価で尚且つ、よく効くものをチョイス、亀甲型の金属製チェーンを買うことにしました。

次に、近所のオートバックスに在庫状況を聞くと、在庫ありとのこと、値段を聞くと15000円程でした。念のためにネットで検索すると、亀甲型のの金属製チェーンは4600円。迷わず、Amazonで購入。タイヤサイズとチェーンの適合についてはメーカーの適合表を確認。これで、足は確保できました。

行きは、東北自動車道を通り、佐野サービスエリアで昼食、13時を回っていたのでピークは過ぎているかなと思い遅めの昼食をとるべくSAの建屋に入ると行列ができています。20分ほど並んで、やはりここは佐野ラーメンかなと思い佐野ラーメンを食べました。初めての佐野ラーメン、あっさりとしたスープに縮れた平らな麺、太くてかみごたえのあるシナチク、厚めのチャーシュー830円也。とてもおいしかったです。

それからも渋滞らしい渋滞は無く、佐野ラーメンの券売機に並ぶのが唯一の渋滞でした

ナビに案内されるまま、鬼怒川温泉郷の裏側のバイパスを通り登っていくと、前面に雪が付いている対向車と何台かすれ違う。ちらほらと雪も舞い始め、ヒヤヒヤしながら車を走らせる。急遽、チェーン装着所というスペースに車を停め、チェーンを装着。5分程度で装着して再出発。チェーンを付けているのであまりスピードを上げずに40kmほどで走る。段々と雪が激しく降ってきて恐々と運転すること小一時間、いくつものトンネルを抜け湯西川に到着した頃にはすっかり雪景色。完全なる雪国に来てしまいました。

温泉街に入ってすぐのところにある「白雲の宿山城屋」が、今回泊まる宿になります。正面から見ると鉄筋コンクリート4階建の建物、築年数は40年位に見えます。

白雲の宿山代屋

ロビーに入って正面は、川を挟んで向こう側の山肌が目に飛び込んでくる。山の斜面の樹木の枝には雪が積もり、ほんの4時間前に東京にいたことが不思議に感じられます。ロビーがある階は3階となっていて、浴室と宴会場が入り口のある階より下にあることから、渓谷に向かって建てられていることがわかります。

年配の男性によるチェックインを済まし、ベトナム人らしき若い女性に案内され部屋に入りました。チェックインをしてから部屋に案内してくれるスタッフを中居さんと言うが、以前であれば、日本人の女性が担っていた役割だったと思うが、近年は

部屋の空気は、強力な暖房が効いており暖かかった。部屋の窓からも川を挟んだ向かいの山が間近にあります。縁側の椅子に座ると、渓谷越しに隣の宿が見え、自然の中にある人里の温もりを感じます。

夕食の前に、温泉街をぶらりと歩くと元日の2日だというのに酒屋が空いていました。しんしんと雪が降る中に店の光が通りを照らす様子は、照明の色が赤っぽいせいか温かく見えます。

湯西川マップ
湯西川温泉の地図

地元のどぶろくを買って部屋に戻り、浴場へ。

浴場には、自分達以外誰も居らず広い浴場を独り占め、施設全体が古いせいか、ところどころタイルが剥がれていたり、配管が剥き出しだったりします。しかし、これも奥深い秘湯の小道具であると思えば納得です。

さて、待望の露天風呂、ドアを開けると下へ降る石段。その向こうを見ると、秘湯感たっぷりの湯殿が待っていました。

秘湯感たっぷりの露天風呂
川面を見ながらの露天風呂

体も温まり、次の楽しみは夕食、ここ湯西川の宿では、囲炉裏で夕食を食べるスタイルが多いようで、今回泊った

囲炉裏を囲んだ食事
囲炉裏での食事は貴重な体験

朝食はバイキング形式となっている。正月だったので、栗きんとんや昆布巻きなどのおせち料理があったが、大体は、田舎の感じの料理がメインである。秘湯のイメージにはあっていると思う。

ホテルや旅館の窓側にある用途不明の空間ありますよね。二人で向かい合うように椅子と小さなテーブル、外部に着いた窓と畳の部屋側の障子に挟まれた空間。

この空間なんて呼ぶのでしょうか? 外部と内部の間にあるバッファー空間ではあるのですが、日本建築的な名称を付けるにしても、床面には安っぽいじゅうたんが敷いてあるので、縁側という言葉が適当とも思えない。あるサイトに「広縁」と紹介されていますが、はたして真偽のほどは別としてとりあえず広縁としておきましょう。

広縁とな?

さて、ここの広縁、窓側にあるためか、すこぶる寒い。雪のない季節であれば丁度良いのかもしれないが、どうも、外壁は厚さや堅さから推測するに断熱材も入っていないようである。それに加え、サッシはアルミサッシは結露し、ガラス部分はシングルガラスのため激しく結露を起こし、もはや純粋製造装置と化している。床の外壁付近は当然結露を起こししっとり濡れている。いくら平家落人の隠れ家とはいえ、鉄筋コンクリート製の建物を作る職人までが、落ちぶれた人間だったとは思えない。設計者の無知、施工管理者の怠慢であろう。

因みに気密性が高いはずのアルミサッシは枠と商事部に1cmほどの隙間があるから驚いた。

窓枠に隙間。換気用か?

平家の落人の村

翌日は、少し観光めいたものをしようかと、ホテルのすぐ近くの平家落人民俗資料館を訪れた。驚いたが、全くの民間の資料館であり、受付の小窓の奥には家の居間であり、ここで暮らしている老婆が一人で入場者を管理している。入館料500円也を支払い中に入ると、写真撮影禁止となっている。

展示物は、脈略もなく様々なものが展示されている。当時の刀や鎧など平家の落人が使っていたらしい武具や馬に乗る際の鐙、平のなんだかが「使っていたと言われる」木製の硯等、どれも学術的な検証は定かではなく、真偽の程は皆目見当もつかない。

さらに、古い農具やスズメバチの巣など平家とは全く関係のないものも展示されている。近所の人から集めた珍しいものをなんでも展示しているという趣である。多少秘宝館の雰囲気を感じるような資料館であった。

この地域の独自の風習として、こいのぼりを揚げない、焚火をしない、犬や鶏など鳴き声を上げる動物を飼わないなど、外部に自分たちの存在を知られないことなどがある。

平家の名を借りた秘宝館と思えばよいか

今回は、これで帰ろうと思い、隠れ家的温泉街から出ようと車で雪道を走り始めたが、なんだかやり残した感があり、もう一度平家の隠れ家的雰囲気に触れたくて、車をUターン。少し走ると。発見!

平家集落とあるではないか!こんなところに平家の集落があるとは、是非見ておかなければと思い。脇道に入り車を止めて、探索を開始した。

川が流れる谷のくぼ地に家が何件か建っている。勾配の急な寄棟の大きな屋根がいくつか見える。車を停めて、雪道を歩くと家と家の間の隙間に人が一人通れるくらいの道がある。雪が踏み固められているということは、人の流れがあるということ、臆せず進む。

この辺りでは最格上のような本家伴久
金井旅館 勇気ある露天風呂
金井旅館

平家集落を見下ろす小高いところにある慈光寺。壇ノ浦の戦いに敗れ、僻地に隠遁した平家落人の菩提寺として知られる寺とのこと

江戸のサービスエリア

東北自動車道を東京に向かう途中。羽生パーキングエリアに寄る。このパーキングエリアは池波正太郎の鬼平犯科帳とコラボをしてつくられた江戸風情を再現したテーマパークのような施設になっている。

次男が頼んだのは五鉄の「一本うどん」という食べ物。ここの店を始める際に試行錯誤して開発した名物だそう。記念に写真を撮ってやろうと思い、次男に箸で持ち上げるよう伝え、少しづつ持ち上げ、「もう少し持ち上げて」と、言って一番持ち上げた時に、箸からうどんが滑り落ちた。今までで一番飛び跳ねたうどんを目の前にして、しばらくは、テーブルを拭く作業が続いた。

ちょい旅 神楽坂

都内の街歩きも楽しいですよね。神楽坂は、それほど派手ではないですが、古い東京の山の手の街の雰囲気が残っているところです。

JR飯田橋の西口から出てると、視界が開け気持ちの良く視界が抜けます。ここ飯田橋駅は、外堀り沿いの江戸城側に位置しているため、外堀の外側に向かって視界が開けているのかもしれません。

水面は江戸城の外堀

神楽坂は、駅を出て右側に向かうと、堀のレベルまで下がり、北に登ると坂道が神楽坂になります。振り返って飯田橋駅駅を見ると、高い壁のようなビルが建っていますが、これは、外堀を埋めてできたビル「ラムラ」になります。

さて、外堀通りを渡って、まもなく上り坂になります。休日(勤労感謝の日)なので歩行者天国になってました。

右手に甘味処「紀の善」を見て坂を登ると、賑やかな店が続きます。店頭にも商品が並んだ陶器屋に目が止まります。

坂道にある店って風情を感じます、

時間はもう午後1時を過ぎているので、この先の街歩きに備えて、お昼にします。メインの神楽坂から進行方向を左に曲がり、歩いていると、出汁のいい香り、香りと看板を頼りに狭く、階段のある路地を登ると、坂道の途中に「鳥茶屋別邸」。趣のある入り口から中を覗くと、意外に広い。丁度満席のようでしたが、ゆったりとした待合スペースで待つこと5分、カウンターに案内していただく。

今日は、勤労感謝の日、普段勤労している自分に感謝を込めてビールを注文。話はそれますが、勤労感謝の日って、何に感謝するのでしょうか?勤労している人にですか、それとも勤労そのものにですか?いつか、わかる日が来るでしょうが、ひとまずビールです。

さて、何を食べようか?ここのおすすめは、うどんすき、とのことですが、うどんすきは、未経験なので、親子御膳、1560円にしてみました。

親子丼、美味しかったです。出汁が効いていて玉子もトロッと柔らかく優しい感じでした。付け合せのタラの煮物と大根もしっかり出汁が効いています。

しっかり食べて、ビールもいただき、心とお腹の満腹感を感じながら神楽坂のメインストリートに戻ります。

少し坂道を登ると、左手に毘沙門天現れてきます。ちなみに神楽坂界隈は、夏目漱石が、生まれ育ったあたりで、かの坊っちゃんにも、毘沙門天の縁日で坊っちゃんが釣りをしたという話がが出てきます。

毘沙門天とは、このお寺善國寺(ぜんこくじ)に祀られている神様のことで、江戸の3大毘沙門天の一つであり、新宿山ノ手七福神の一つだそうで、とにかく、有名なお寺です。

そして、更に進み、右手に少し入ると、今度は赤城神社(あかぎじんじゃ)が現れます。神社というと、古い木造の建物などを想像しますが、こちらは、鉄とガラスとコンクリート製です。しかも、かなりシャープなデザイン。設計者は隈研吾さん。

鳥居をくぐると、まずは、手水舎(ちょうずしゃ)。柱が二本の、鉄骨造でシンプルにデザインされています。

鳥居と拝殿の間には、フリーマーケットが行われていて、とても進歩的な神社です。

階段を上がると、小高い丘のように視界が開け、左側に舞台、正面に拝殿、右側には共同住宅が配置されています。

それぞれのデザインは、拝殿と舞台の形態は日本の神社の形態ですが、素材は、鉄とガラスと木を使っていて隈研吾さんらしい現代の素材で伝統的な空間をつくる隈研吾さんらしい世界となっています。右手の共同住宅は5階建てで、定期借家で販売しているとのことです。

こういった事業のスキームについては、三井不動産が、事業計画を建てているようですね。素晴らしい仕事だと思います。

もう少し先の、やはり隈研吾さん設計の「ラカグ」へ向かいました。元々は新潮社の倉庫を2014年にリフォームして、雑貨や家具、本などを扱う商業施設として賑わっていました。2019年に「アコメヤ」に業態変化しています。

建物は、2014にリフォームしたまま、交差点から木デッキでつながるアプローチと、スレートの外壁からなる建物はそのままです。

神楽坂は、都心の商店街ながら、大手の店舗よりも地場の店が存在感を示す魅力的な街です。こういった商店街を守るためには、地元の商店街の方々の努力があったことと思います。ここの商店街は、商店街としてビル建て、そのビルの最上階に事務所を構えています。

このビルの最上階が神楽坂通り商店会の事務所

盛りだくさんの神楽坂。個性的な店がたくさんあります。

甘味処紀の善
五十番、ここの角煮肉まん食べたかった

帰りは、大江戸線の飯田橋駅から帰りました。ここは、渡辺誠さん設計。できた当時は、脱構築主義と言われた表現手法だったような、デコン(デ・コンストラクション)とも言われていたような記憶があります。今となっては、そういう事もあったなと懐かしいです。

2021.11.23

10000歩 5時間

かなや設計 環境建築家 金谷直政

ちょい旅 ジョンソンタウン

秋というよりも冬の入り口の休日、前から見てみたいと思っていたジョンソンタウンに行ってみました。

ジョンソンタウンとは、旧米軍ジョンソン基地にあった住宅をそのまま残して賃貸住宅にしている街です。

同じ形の平屋の木造住宅が多く残る地域で、外壁は下見板張りに白っぽいペンキを塗ったものがオリジナルかと思いますが、比較的新しい建材を使って下見板張り風にしている建物もみられます。

平屋の切り妻屋根の外観で連続性を出し統一感を持たせているものや、下見板を使うことで調和を持たせているものなど、外観にはある程度、意匠上の幅はありますが、イメージとしては、アメリカの郊外に建つ庶民の家という感じが、とても懐かしくもあり、心地よいです。

住宅として使われている建物がある一方、かなりの建物が、雑貨屋、アクセサリーショップ、家具屋、古本屋、セレクトショップ、エスニック料理、ハワイ料理、バーなど、アメリカっぽい(?)イメージの店がいくつも営業しています。中には餃子屋や、カレー屋、中華雑貨などアジアンな店もありました。地図を載せてます。番号が付いているところが店舗のようです。

どんなだろう?という、はやる気持ちを抑え、まずは、地図で全体像を頭に入れ、町の規模感をつかんでまち歩き開始します。目に心地よく映る景色は、やはり、同じような外観の平屋のシルエット。屋根の勾配が揃っていて、軒も低いため親しみを感じます。

単純な平屋の外観にも関わらず、豊かな感じを受けるのは、たぶん、バルコニーなどの室内と屋外の中間的なスペースが通りに向けて用意されているからなのでしょう。こういうトコロに住人達が思い思いに、緑や家具を置くと、街並みに一気に表情が出てきます。建物を使っている人の性格や人柄が伝わってくるから不思議ですね。

センス良く手入れされているバルコニー、どんな人が住んでいるのだろう?

例えば、植えている植物一つとっても、鮮やかな花の色や、大柄な葉っぱの雰囲気になんだかアメリカンを感じます。これが東京の下町であれば、小さな花や野草のような緑を愛でていていて和のテイストになってきます。

軒先を飾る緑を通して、建物に住む人の性格があらわれる気がします。

さて、建物一つ一つの表情もさることながら、ここが魅力的な理由の一つは、塀がないことではないでしょうか?塀がないことで、家と家の間が単なる家のスキマではなく、通り抜けの空間になってきます。通り抜けの空間になることで、裏とか表とかがなくなり、裏も表も手入れされた街の一部になってきます。

↑建物と建物のスキマにわずかな歩行スペースがあります。ほんと人が1人やっと歩くくらいの幅しかないですが、楽しげな歩行空間になっています。もう少し近づいてみると、ちょっとした置物などがあり、楽しげな雰囲気を感じます。

サボテンから水が流れる楽しい置物が路地に誘う!

建物と建物の間のスキマ。こう言う場所が面白い!道路に面する側は、その家の正面、外向きの顔ですが、建物と建物のスキマは、正面とは違う、お隣さんとの壁の間に生じたプライベートな場所になります。食事をする場所があったり静かに寛ぐ場所があったり、しています。下の写真では、右側の家の寛ぎ空間が見えます。左側の家はこちら側の壁にはほとんど窓がないことから、ここのスキマは、右側の家のためにあるようです。

細い路地でもあり、家の裏庭dもある建物のスキマ

ちょい旅では、食べ物を食べるのも楽しみの一つ。アメリカンな雰囲気の中で食べるランチはどんなものが良いかな?と、迷うのも、また楽しいです。テラス席がある気持ちの良いお店、ハワイ風の食事をだすお店、個性のある街は食事をするところも個性的なお店ばかり。

入ったのは、こんなお店。天井は屋根の裏がそのまま天井になっており、広がりがあって心地よい感じです。もちろん米軍住宅だけあって、小屋組はトラス構造となっています。トラス全体が合成梁になっているため、部材一つ一つは細い材料を使っています。壁の構造は見えませんでしたが、ツーバイフォーなのでしょうか?

トラスの小屋組を表している室内

頼んだのはメキシカンプレート。ドリンク付きで`1320円でした。ボリュームたっぷりで、おいしかったです。

お腹を満たしたところで、また街歩き、いろんな店を覗いてみます。下の写真からの店は、カリモクの家具を扱っているインテリアのセレクトショップ。カリモクブランドの普遍的なデザインの椅子が並んでいます。座ると流石、カリモクの家具、無駄のないフォルムなのに心地よく体を支えてくれます。「欲しいな〜」という気持ちはさておき、天井は先程、お昼を食べたお店と同様、屋根がそのまま天井になっています。仕上げは、合板のナチュラルな木のイメージで仕上げられています。シンプルな内部空間と、シンプルなカリモクの家具のフォルムがシンクロして心地よいです。

その他、さまざまな雑貨店などをみて、帰路につきます。帰り道の道すがら、気持ちのよい外部空間を見つけたので、ご覧ください。

曲がり屋の建物は外部空間が心地よい
妻側の窓の緑が映える
シンプルな妻壁に樹木のシルエットが浮かび上がる
スズナリの柚子
店舗ではない住居が連なっている
住居のバルコニー。物語が始まりそう
建物の隙間の路地にアーチがかかる
多分、後でできた日本の在来工法の2階建てだが、下見板ばりにするだけで馴染んでいる

かなや設計 環境建築家 金谷直政

2021.11.21 車で往復 160km 8時間

WAN AWORDS 2021 ファイナリスト入賞

英国の建築メディア WORLD ARCHITECTURE NEWS が主催するグローバルWANアワードの最終結果が発表され、かなや設計が墨田区内に設計した案が、Sustainable Design and Land Use「持続可能なデザインと土地利用」部門において、ファイナリストとして表彰されました。


同じ部門のファイナリストであるアメリカやドバイの巨大施設に比べ、小粒ながら(といっても、かなや設計の物件としては決して小粒ではないのですが)選ばれたことは、墨田区の身近な問題のなかにも世界と共有する課題があることを感じました。


WANアワードは「今年で13年目を迎えるこの賞は、世界中の革新的で先見性のある想像力豊かな建築家の傑出した作品を表彰するものです(主催者のホームページより)」というものです。


プロジェクトの内容は、下記の通りとなります。
Project Name : GOODWELL SHARE HOUSEProject start date : 2017.03.23Project completion date :2020.03.06Company Name : KANAYA SEKKEI, Tokyo, JapanIn the downtown area of Tokyo, where the proposal is located, old wooden houses are densely packed and the cityscape remains quaint because it did not burn due to the great earthquake of the last century and the great air raid of World War II. However, the earthquake and air raids have killed more than 200,000 people, so if a fire breaks out, great damage is expected. Therefore, in order to enhance disaster prevention capabilities, a well was dug and 10 tons of groundwater was pumped up and stored in a pond every day. The pond becomes a waterside landscape in daily life, and the overflowing water helps eliminate the heat island phenomenon and enhances the living environment. It uses the heat of groundwater to reduce utility costs and is a measure against global warming. Furthermore, it is useful for local disaster prevention as fire extinguishing water in the event of an earthquake and as domestic water after the earthquake. It is a modern well end that enriches people’s lives and protects their lives.

かなや設計 環境建築家 金谷直政

ちょい旅 鹿野山(かのうざん)

久しぶりにセローに跨り、遠出をしてみました。遠出といっても、お隣の千葉県ですが、

ただ、最近は全くセローで出かけていなかったので、リハビリ的なツーリングという気持ちで、ソフトに、マイルドに、優しい気持ちで行き先をを決めてみました。

鹿野山は、房総三山の一つとのことで、山頂からは、東京湾、富士山、三浦半島、富津岬、九十九谷(くじゅうくたに)が見えると、ネットでの事前情報を見たので、そんなに素晴らしい眺望が千葉にあるなんて、これは是非、行ってみなければと思い、ささっと準備をして千葉へと向かった。

スマホがフル充電ではなかったことが、気がかりでしたが、10時半頃出発しました。

行きは渋滞もなく、スムーズにセローをはしらせます。目的地に近づくにつれ、道幅が狭くなり、道路のセンターラインもない道を走ると、竹林が道路にはみ出したかと思うと、舗装も途切れ途切れの山道になったりと、気持ちの良い田舎道が続きます。

適度な悪路は、セローにとってのおもてなしのようなもの。心地よい鼓動を感じながら、進むと目的地に到着。

九十九谷展望公園からの景色は、折り重なるように続く緩やかな山の頂が見渡すことができる絶景でした。なんでも、かの有名な東山魁夷の出世作となる絵は、ここから見た景色だそうな!

バイクで訪れる人がちょくちょくあり、自分もその中の1人なのだと安心するような感覚を感じ、展望台を後にしました。

時間は12時を過ぎているので、お昼ご飯を食べようと向ったのは、田舎レストランじんべい、グーグルでは星4.2。

到着すると、田舎の農道の奥の立地ながら、沢山の車が停まっている。名前を書いて待つこと30分、ようやく着席し、オーダーをし。さらに待つこと30分、ようやく食べ始める。

後で、ホームページを見てわかったけど、今年に入って2度テレビに出ていたみたい。どうりで混んでいたわけです。そういえば、隣に座った男女の2人組が「テレビで映っていたのはどれ?」とか言っていました。

海鮮丼アジフライセット1680円(税抜き)!美味しくいただきました。

そのあと、小糸川温泉へ。茶色い色をしたお湯が特徴の温泉。日帰り入浴料800円。浴室は、それほど広くはなくて、カランも2箇所のこじんまりした温泉。湯船は暑くもなく、ぬるくもなくちょうど良い湯加減。窓から外をのぞくと、ススキがゆらゆらと風情のあるけしき。

ここで一句、

小糸川 ススキがゆれる 露天風呂

お湯は茶色くて、入るとぬるぬるとする特徴的なお湯。カランからも同じお湯が出ているせいか、洗い場の白い椅子に茶色い液体が付いていて、誰かのおもらしかと思いギョッとしてしまった。千葉では、こういった温泉が多いようだ。以前養老温泉に行った時も確か、こんな温泉だったような気がする。

ここは、立ち寄り湯と食事を出すだけの施設。湯上りの休憩スペースは、座敷とテーブルのスペースにそれぞれ座卓とテーブルが5つづつゆったりとおいてあります。座敷のスペースには、地元と思しきお母さまが3人地元の言葉で話をしている。声の大きい奥様が横になりながら話続て聞き役の一人で延々と話をし、もう一人は黙って聞いている平和な時間。

その他、2組くらいがのんびりと寛いでいてとても気持ちの良い時間が流れています。帰りのことを気にしなければ自分も、のんびりしてしまいそう。

帰りの時間もあるので後ろ髪をひかれながらセローにまたがり、家路につきます。途中、市原サービスエリアに立ち寄り、お土産に巨大なちくわを買い、無料の温かいお茶を飲んでふと見ると、「当店限定、勝浦タンタンメンバーガー550円」なるものを発見。こちらもお土産に購入。

さて、ココからの帰り道は、いつもは車だと、渋滞して大変。だけど今日はバイク、しかもハンドル切れ角がたっぷりのセロー!車の間をスイスイと進む。渋滞している中、大体40~50キロで東京へ向かう。

往きも還りも順調な道のりであったが、ココで思わぬことが起こってしまった!

出かけるとき、スマホの充電が少なかったことが気になっていたが、やはり、ここにきて充電が切れた。いつもは車でナビがナビしてくれるので、道に迷うことはほぼないのだが、バイクはスマホをタンクバックに入れ、グーグルマップで方向を確認していたのだが、そのグーグル様がお亡くなりになって、おじさんが独り立ちしなければならない状況になってしまった。

案の定、高速の分岐を間違え、何故か外環自動車道へ向かう方に行ってしまった。高速を降りて、周りの車で足立ナンバーが居ればその車についていこうと思い、見てみると京都ナンバーだったりして、「京都なら、ココから見れば東京方面かな?」と思いつつ、これは役に立たないなと思い。標識を頼りにまた、高速に戻り何とか四ツ木インターに到着。

家に着いて、お風呂にバブを入れてホッとしました。

走行距離220km。時間8時間でした。

2021.11.14

京島の震災シミュレーション

もし、関東大震災級の地震が起こったら、京島はどうなるのでしょう?

前回のブログでは、現代のける都市の直下型地震ということから、阪神・淡路大震災を参考に、約8割(83%)の人が頭部損傷・内臓損傷・頚部損傷・窒息・外相性ショック等で死ぬだろうと考えられます。

つまりほとんどの人が建物や家具の下敷きとなって亡くなるようです。震災のイメージとして、関東大震災において多くの人が焼死したことや、阪神・淡路大震災の際の映像で木造の建物が燃えていた映像を見た記憶から、火災による焼死のイメージが大きいかもしれませんが、現代の都市部においては震災時の死因のほとんどは、建物や家具の下敷きになって死ぬことになります。

2階建ての建物と、3階建ての建物の場合の倒壊の様子がわかる映像がありますので、ご覧ください。

これは、神戸のEディフェンスという政府の実験施設において、大きな床の上に実際の建物を再現し、巨大地震と同じ揺れを再現した実験になります。

2階床に押しつぶされる?!

まずは、2階建ての建物の倒壊の様子です。この映像の右側の建物が、昭和56年以前の基準で建てられた建物です。左は、同じ建物を若干補強したものになります。

この映像を見て、自分が1階にいた時のことを想像してみてください。1階部分が、あっという間に崩れています。「地震が来たら机やテーブルの下に入りなさい」と言われ、そのように行動したとしても机の上に建物の2階部分が崩れてきて、もろともに押しつぶされることになってしまいます。

逃げる間もなく、建物の下敷きになってしまいます。運よく頭部の損傷を免れ一命をとりとめていた場合でも、胸部が圧迫され呼吸ができなく次第に窒息死すると言われています。

また、窒息しなかった場合でも、救助に来てくれる人がいるとは限りません。あちこちで倒壊した建物に阻まれ救助隊はなかなか来てくれないでしょうし、他の場所でも同じように救助を待つ人の救助の順番を待たなければ助けてもらうことはできないのです。

そうこうしているうちに、震災後に発生した火災による炎がせまり、焼死することになるのです。阪神・淡路大震災の際には、死者行方不明者6434名のうち12.8%が焼死と言われています。約800人の方はそのようにして亡くなったのでしょう。

3階建ての場合の実験も行っていますので、ご覧ください。

やはり、1階がつぶれています。地面に対して2階の床が平行に迫ってくるので1階と2階の床に挟まれて挟まれると想像できるでしょう。

災害の被害が想定できれば、その対策は、どうすれば良いのでしょうか?

有効な方法の一つは、建物の耐震性を高めることです。Eディフェンスの実験で崩れている建物は、耐震性が弱いから崩れているのです。

安心な耐震レベルは耐震等級2か3!

では、どの程度の耐震性であれば安全なのでしょうか?一応安全と言われているのは、現行の建築基準法のレベルと言えますが、これは耐震等級1というレベルです。

しかし、熊本地震では、このレベルの建物でも倒壊しています。たとえ倒壊しなかったとしても、大破や中破など大きな被害を受けている事例は多く、その後住み続けることは困難になっています。

必要な耐震のレベルは耐震等級2、本当に安心なのは耐震等級3になります。

かなや設計 環境建築家 金谷直政
2021.11.13

大きな地震の際の死因は?

地震が起きた時に、どのような理由で死に至るか、想像したことがあるでしょうか。イメージとしては、地震が起きて建物の下敷きになり死ぬ。というものではないでしょうか。

私もそうでしたが、こういうイメージを持たれる方が多いと思います。しかし、実際の地震のときの死因は、そうとばかりとは言えないようです。

記録が残っている震災での調査結果によると、

東日本大震災では溺死が92%、圧死・損傷死等が4%

関東大震災では火災による死者が87%、住宅全壊による死者が10%

阪神・淡路大震災では建物倒壊による頭部損傷・内臓損傷・頸部損傷・窒息・外傷性ショック等が83%、焼死が12%

です。

大震災による犠牲者の死因割合(東北大学災害科学国際研究所)

この調査結果によると、地震によって、主な死因は全く違っていることがわかります。

阪神・淡路大震災と関東大震災はいづれも都市型の直下型の地震ですが、主な死因が違っています。これは、震災時の建物や町の違いによるものと考えられます。関東大震災の頃は、まだ平屋の木造建物が多いため建物が崩れて圧死することは少なく、火災により亡くなった方が多かったようです。当時多くの死者が出た東京の下町エリアでは、火から逃げるように広場に集まり、その広場に集った荷物や人が燃えることで多くの死者が出たと言われています。今は、震災による慰霊堂がある両国の横網公園では43,000人が避難して38,000人が焼け死んだと言われています。

京島で大地震が起きた場合の死因は?

私が住む、東京の典型的な下町地域である墨田区の京島地区は、木密地域と言われ、未だに木造建物が密集して残る地域です。

この地域は、関東大震災の時にも東京の大空襲の時も奇跡的に焼けなかった地域であることから、大正末期の古いまちの面影を残している地域となっています。

そのため、木密地域の中でも特に危険な地域となっており、東京都による調査では、東京都5,177町丁目の内、建物倒壊危険度は、京島2丁目が1位、京島3丁目が2位。火災危険度は、京島2丁目が2位、京島3丁目が9位となっています。(東京都 2018年)

関東大震災の際にたまたま焼けなかった町であることから考えれば、もし、関東大震災と同程度の地震が起きた場合には、関東大震災と同様の死因が多いと考えれます。しかし、現在この街では、火災の際に避難する大規模な避難所がいくつか設けられているため、当時のように多くの人が広場で焼け死ぬことはないと思います。

どちらかというと、阪神・淡路大震災のように、建物や家具の下敷きになり死ぬことが多いのでは、と考えられます。そして、木密地域であることから、阪神・淡路大震災の際でも長田(ながた)区で火災があり亡くなった方がいたように、倒壊した建物に閉じ込められたまま火災によって死ぬ人がある程度あるではないでしょうか。

かなや設計 環境建築家 金谷直政

2021.10.30

コロナ病棟 非常時に有効な病棟はコレ!

コロナ対策の病院の切り札!ナイチンゲール病棟を紹介します。

ナイチンゲールは、クリミア戦争(1853年~1856年)の戦地での看護経験を活かし、イギリスにもどった後、ナイチンゲール病棟という病棟を考案。イギリス国内では、各地につくりました。

戦地での経験とは、最小の医療資源(人、物資、施設)で、最大限に人命を救うと言う野戦病院の経験なので、今日、戦時と言えるコロナ禍においては、まさに効果的な病棟形態となっています。

まず、最小の看護師、ドクターによって、多くの患者を診ることができる大部屋。そして、大部屋でありながら、飛沫感染に配慮し、ベッド間隔を2m以上取っています。これは、現在言われている間隔とも合致しています。

更に、空気感染に配慮し、天井高を高くし、気積を確保することで、空気中を漂う細菌やウイルスの再感染を防止しています。

また、病棟への入り口を一か所に絞ることで、汚染部分と非汚染部分が交錯しないような明快なプランになっています。これは清汚(せいお)区分といって医療施設の感染対策では重要な考え方になります。

もちろん、今日の医療法、診療報酬基準に適合しない部分は若干ありますし、空気の制御についてはむしろ現代の技術を使った方が良いですが、現在の医療施設ではこの環境は、確保でません。

設置場所は、具体的には、体育館、集会場、教室等の大空間があれば、冷暖房・換気などの機械設備、動力・通信などの電気工事、わずかなパーティション工事であれば、既製品の組み合わせで、1か月以内、最短で言えば、2週間程度で造ることはできるでしょう。

ショッピングセンターやパチンコ屋の立体駐車場でも可能です。形は、この絵のような形ばかりではなく、様々なアレンジが可能です。病棟設計の経験と、感染に対する知識、施工に関する知識のある設計者に頑張ってもらえば1週間程度で設計できるのではないでしょうか?

既成概念にとらわれずこういうことをやるのは政治家の力なのでしょうね。政府の方、もしくは各自治体の保健所の方、検討されてはいかがでしょう!!!

かなや設計 建築家 金谷直政

豪雨は日常事態!垂直避難が有効

垂直避難
水平避難

地球温暖化のせいなのか、今まで経験のない大雨や台風が、繰り返し訪れるようになりました。

それに伴う洪水予報や、避難情報については、近年は何度も発令され、大事にならない事が繰り返され、本当に避難が必要な時には、「今度も大丈夫だろう」という感覚から避難しないという状況が予想されます。

近年のように、観測史上初めてとか、50年に一度の豪雨が頻繁に起こるのでは、もはや、避難する状況は非常事態ではなく日常事態となつつあります。

そして、避難が日常のことになってしまうと、その都度、避難所に避難するとはなくなるのではなるのではないでしょうか?

地球の気象が変化してきていることに合わせ、今までの避難行動の見直しが必要と思います。つまり、稀に来る豪雨に備えて避難する計画から、度々くる災害に備え避難する計画に変えていく必要があると考えます。

具体的には、日常の生活の中での避難を考えなければならなくなるのではないでしょうか?稀に来る豪雨に備えて近くの小学校などの避難所に避難していましたが、豪雨が度々来るようになった今日では、家の上の方に避難するのです。

浸水などの水の被害は、地震に比べると、非難の時間があるので、浸水が始まりそうとわかってから上の方の階に逃げることが可能です。ハザードマップでは、浸水の際、自分が住んでいる地域の水深が示してあります。そこで示されている水深より高いところに避難するスペースがあれば、自宅にいながらの避難が可能と考えて良いかと思います。

稀に来る豪雨に備えた避難が、避難所への「水平避難」だとすれば、度々来る豪雨に備える避難は「垂直避難」が有効なのではないかと考えます。

例えば、墨田区の北部の京島三丁目をハザードマップで確認すると、最大浸水深は、3m以上5m以下となっています。5mの浸水が起きた場合は2階の天井付近まで水没してしまいます。3階建てであれば、無理に避難所に避難しなくても良いということになります。

かなや設計 建築家 金谷直政